御木徳近 みき とくちか

宗教

掲載時肩書PL教団教主
掲載期間1978/10/17〜1978/11/12
出身地愛媛県
生年月日1900/04/08
掲載回数27 回
執筆時年齢78 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社市電車掌
配偶者信者孫娘
主な仕事11歳寺修行、徳光教16歳、大阪株式取引所、2代目36歳布教、名称変更「ひとのみち」、不敬罪:懲役3年、PL立教
恩師・恩人金田徳光 師から徳近の名を
人脈中村汀女、窪田空穂、岡野衛士、島田武夫
備考PL教義:人生は芸術である
論評

1900年(明治33年)4月8日 – 1983年(昭和58年)2月2日[1])は愛媛県生まれ。宗教家。パーフェクト リバティー教団(PL教団)第2代教主。父・徳一に続いて大阪の徳光教会教師となり、1925年(大正14年)、父と共に「御嶽教徳光大教会」を設立。1931年(昭和6年)には「ひとのみち教団」を開教、1936年(昭和11年)9月に父の後を継いで第2代教主に就任した。1937年(昭和12年)に不敬罪により結社禁止の処分を受け有罪となったが、第二次世界大戦後に釈放された。1946年(昭和21年)9月、「パーフェクト リバティー教団」(PL教団)を設立し教主に就任。1953年(昭和28年)には大阪府富田林市に教団本部を建設、本部にコンピューターを導入するなどして積極的に教勢拡大に尽力した。この間、1951年(昭和26年)に新日本宗教団体連合会を結成して理事長に就任した。

1.不敬罪で検挙される
昭和12年(1937)4月5日、検察当局は「不敬の事実を掴んだ」として、父を不敬罪で追起訴し、私はじめ10数人の幹部教師を不敬罪容疑で拘引した。さらに28日には教団に対して結社禁止令を発した。かくして未だ判決も出ないうちにもかかわらず、信徒百万を超える教団は一挙に潰されたのである。
 この事件の弁護士だった島田武夫氏は、「法学セミナー」の1978.9月号で次のように記している。「布施市にあった千畳敷の鉄筋コンクリート3階建ての大殿堂を判決によるでなく、実力で取り壊し、屑鉄にして売り払い、教団をつぶしていった。・・当時、軍部と官僚が専制政治を行っており、国論を統一するため、まず共産党に対して弾圧をかけ、続いて新興宗教に対して大弾圧を加えたのである」と。

2.留置場暮らし
公判中の私は、ほとんど留置場暮らしであった。大阪府警の留置場、警視庁の留置場、その後、巣鴨拘置所、小菅刑務所などにも入れられたが、そこにはそこで面白い人間模様があった。
 大阪府警の留置場でのことだが、前科何犯という泥棒が同じ房に入って来た。なかなかのしたたか者で、容易に犯行を自供しない。私はこの男に諄々と人の道を説き、真人間になるよう諭した。彼は次第に悔悛して、「初めて本当の人間に会うことができた」と言ってくれたそうだ。彼のように留置場慣れした者ばかりではない。入った夜一睡もせずに泣いている人や、食事が出ても食欲を示さない人など、世に出ればひとかどの人らしい人の、意外な弱さも見た。ああいうところで平静にしているのはよほど難しいことらしい。

3.PL教団の教義「人生は芸術である」
昭和21年(1946)9月29日、PL教団を立教し「PL宣言」を発表した。私は「人生は芸術である」との協議を掲げ、世の人々を救うべく日夜努力しているのであるが、ここで、なぜ人生は芸術であるのか、若干の説明を加えておきたい。
 人はそれぞれ、生まれながらにして独特の個性を神から与えられている。この個性がその人のまことである。これをキャンパスに表現すれば絵画となり、文章に表現すれば文学となる。だが、個性はいわゆる専門芸術によってのみ表現されるものではない。
 経営に表現されれば経営芸術となり、育児に表現すれば育児芸術となる。すなわち人間の行為はすべて、自らの個性を表現する自己表現であり、その人独自の芸術なのである。
 文学者や画家や音楽家だけが芸術家なのではない、全ての人が、自らの仕事を通じてまことを表現することによって芸術家となるのである。こう思えば、あらゆる人が自らの仕事に光り輝くものを見出し、生きる張り合いを得るであろう。

御木 徳近(みき とくちか、1900年(明治33年)4月8日 - 1983年(昭和58年)2月2日[1])は日本の宗教家パーフェクト リバティー教団(PL教団)第2代教主。

  1. ^ 御木徳近』 - コトバンク
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