掲載時肩書 | 衆議院議員 |
---|---|
掲載期間 | 1991/01/01〜1991/01/31 |
出身地 | 徳島県 |
生年月日 | 1914/08/09 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 水戸 |
入社 | 内務省 |
配偶者 | 徳島商 工会頭娘 |
主な仕事 | 台湾、警視庁、長官(浅間、よど号、三島事件) |
恩師・恩人 | 田中角栄 |
人脈 | 海原治(同期)、町村金吾、増原恵吉(警察長官)、小林与三次(次官)、奥野誠亮(財政局長) |
備考 | 代々庄屋 |
1914年8月9日 – 2005年9月19日)は、日本の内務・建設・警察・防衛・自治官僚、政治家。 政界人としては遅咲きながらも、自由民主党の重鎮・御意見番として国政を支えた。その辣腕ぶりから「カミソリ後藤田」の異名を取った。
1.結婚―本土決戦覚悟、式を急ぐ
昭和20年(1945)3月20日、私は吉見勢之助(徳島商工会議所会頭)の養女・松子と結婚した。台北から飛行機で危機一髪の東京出張をしたとき、わずかの合間に、徳島で式を挙げたのである。あの頃の日本軍の勢いだと、途中でギブアップするとは思えず、本土決戦まで突っ込むなと思っていた。 このままでは必ず本土決戦になる。そうなったら軍人も民間人もない。みんな終わりだ。私たちが、ここまで来たら「死なばもろとも」と考え、相手方の親族もそのように考えてくれたので、急遽結婚式を挙げたのである。
しかし、結局は本土決戦にならずポツダム宣言を受諾したわけであるが、こういうことは運命的なことである。もし、米軍が台湾に上陸したら、われわれは生きて帰れなかったし、本土決戦にでもなれば、なおさらのことである。
2.警察予備隊・・・専守防衛
GHQは朝鮮戦争が勃発すると、7万5千人の警察予備隊を早急に作れという指令を出した。昭和25年8月、私は警察予備隊本部の警備課長兼調査課長の辞令を受けて、増原恵吉長官、石井栄三局長の下で、その創設に当たることになった。
警察予備隊創設に米軍の中にも2つの考え方があったようだ。旧日本陸軍の大佐以下の優秀な幹部数十人を集めてつくるべしという議論と、それでは日本の軍国主義の復活につながるから、全く異質の人材を幹部にしてつくるべしという2つの流れがあったと聞いている。
結局、旧軍の幹部は排除するということになって、どちらかというと旧内務省、ことに警察畑の人、ただし特高関係者を除いた人たちを中心に警察予備隊をつくることになった。
3.警察長官時代・・・大事件が続発
私が警察庁長官になったのは昭和44年((1969)8月である。役人としての総仕上げの時として心を新たにして臨んだのだが、在任期間はまさに疾風怒涛の時代だった。
赤軍派「よど号」乗っ取り事件、瀬戸内海でのシージャック事件、三島由紀夫の割腹自殺、成田空港建設反対闘争の激化、沖縄青年の皇居乱入事件など、大きな擾乱事件が相次ぎ、今から考えるとよくぞ乗り切ってこれたものだと思う。
これに止まらず、昭和46年の12月にはご夫人までが犠牲になった土田警視庁部長宅襲撃事件、翌年の2月に連合赤軍浅間山荘事件、5月には日本赤軍テルアビブ・ロッド空港乱射事件と重大事件が相次いだ。浅間山荘事件では、慎重を期したにもかかわらず一般人一人が死に、警官二人が殉職した。
2年11か月の長官在任期間の警察官の殉職者は数人、負傷者は数千人に上がっている。この数字が擾乱事件の多かったことの証拠である。
4.田中角栄氏への詫び・・・「履歴書」の最後に
最後に、私の政治生活を顧みて、一番お世話になったのは田中さんであり、今日あるのも田中さんのおかげである。その田中さんが退陣、裁判、病気とお気の毒な境涯にあり、何らお返しのできないまま今日に至っている。それが私の負い目である。
2005年9月、両氏が相次いで亡くなった。後藤田氏は91歳、中内氏は83歳であった。両氏とも政界、財界を風靡した風雲児で、日経の「私の履歴書」に掲載された人でもあった。後藤田氏は1991年1月に、中内氏は2000年1月に掲載された。後藤田氏のそれは中曽根氏の1992年1月、福田赳夫氏の1993年1月よりも早い掲載でした。
後藤田氏は最後の内務官僚として入省し、警察庁長官や内閣官房副長官(事務次官全体の責任者)として官僚機構と国家情報の全てを掌握し、政界に進出したのですからその実力は他の政治家よりも卓越したものでした。氏は日経の「履歴書」の中で「官と政」の違いを語り、「官僚」は省益中心ではなく国家全体を、「政治家」は官僚を見習い勉強して、有能者を登用して守ってやらねばならないとその心構えを述べていました。
後藤田 正晴 ごとうだ まさはる | |
---|---|
1965年、警察庁次長就任時 | |
生年月日 | 1914年8月9日 |
出生地 | 日本 徳島県吉野川市 |
没年月日 | 2005年9月19日(91歳没) |
死没地 | 日本 東京都文京区(順天堂大学医学部附属順天堂医院)[1] |
出身校 | 東京帝国大学法学部政治学科卒業 |
前職 | 警察庁長官 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 | 陸軍主計大尉 正三位 勲一等旭日大綬章 法学士 |
親族 | 父・後藤田増三郎 兄・後藤田耕平 甥・井上普方 大甥・後藤田正純 |
内閣 | 宮澤改造内閣 |
在任期間 | 1993年4月8日 - 1993年8月9日 |
第55代 法務大臣 | |
内閣 | 宮澤改造内閣 |
在任期間 | 1992年12月12日 - 1993年8月9日 |
第45・47-48代 内閣官房長官 | |
内閣 | 第1次中曽根内閣 第2次中曽根第2次改造内閣 第3次中曽根内閣 |
在任期間 | 1982年11月27日 - 1983年12月27日 1985年12月28日 - 1987年11月6日 |
初代 総務庁長官 | |
内閣 | 第2次中曽根内閣 第2次中曽根第1次改造内閣 |
在任期間 | 1984年7月1日 - 1985年12月28日 |
第47代 行政管理庁長官 | |
内閣 | 第2次中曽根内閣 |
在任期間 | 1983年12月27日 - 1984年7月1日 |
その他の職歴 | |
第28代 自治大臣 第37代 国家公安委員会委員長 第42代 北海道開発庁長官 (第2次大平内閣) (1979年11月9日 - 1980年7月17日) | |
衆議院議員 徳島県全県区 当選回数 7回 (1976年12月10日 - 1996年9月27日) | |
第6代 警察庁長官 (国家公安委員会委員長: 荒木万寿夫、中村寅太) (1969年8月12日 - 1972年6月24日) | |
第6代 警察庁次長 (1965年5月19日 - 1969年8月12日) | |
第3代 自治庁長官官房長 (1959年3月6日 - 1959年10月13日) |
後藤田 正晴(ごとうだ まさはる、1914年〈大正3年〉8月9日 - 2005年〈平成17年〉9月19日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。位階は正三位。