弘世現 ひろせ げん

金融

掲載時肩書日本生命保険社長
掲載期間1978/08/24〜1978/09/20
出身地東京都
生年月日1904/05/21
掲載回数28 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他学習院
入社三井物産
配偶者成瀬->弘世四女
主な仕事日本生命(岳父・実兄社長)、暮らしの保健、電算化、婦人セールス、日生劇場、生命保険協会、ボーイスカウト連盟
恩師・恩人弘世助太郎(岳父)
人脈高松宮(同級)、乃木院長・東郷元帥、石田礼助、中山伊知郎、浅利慶太
備考犬山城主分家(成瀬家:第8子、6男坊)
論評

1904年5月21日 – 1996年1月10日)は東京生まれ。実業家、日本生命社長。最初は三井物産に入社、16年間勤務した。1944年、日本生命の取締役として転身した。株式会社であった日本生命が相互会社として1947年に再出発するに当たり専務となり、1948年、44歳の時、5代目社長に就任。1982年まで35年間にわたり社長を務めた。同社の「中興の祖」と呼ばれた弘世助太郎の娘婿。生保業界の重鎮とも呼ばれ、1976年に、オハイオ州立大学内にある保険殿堂入りを果たした。また、浅利慶太や石原慎太郎のスポンサーとなり、日生劇場の生みの親でもある。娘の準子はサントリー名誉会長・鳥井道夫の妻で、孫の夫はパナソニック副会長・松下正幸。

1.高松宮様のご学友に
学習院の中等科に進むと、体の弱い者を除き全寮制になった。学級編成も変わって“別組”というのが誕生、高松宮様のご学友の11人で編成された。私も”別組“に加わった。もっとも高松宮様だけは寮に入らず、馬車に乗って通われた。寮玄関でお迎えして一緒に教室に入る。学習院長、教頭らもお出迎えするが、いつもお付きの人が二人以上いたように思う。そしてやる勉強は一緒でも、時間割は全部違っていた。中等科2年まで、一緒に机を並べていたし、よく話し合っていたが、2年を終えるとすぐ海軍兵学校に行かれた。高松宮様とのお付き合いは今も続いており、今年の春もお目にかかっている。

2.東郷元帥と関東大震災
姉の嫁いだ海江田幸吉の姉が東郷平八郎元帥夫人であり、一家は私の家にほど近い三番町に住まわれていた。たびたび東郷家を訪れていたものだから屋敷の様子からご家族のことまで、鮮明な記憶として残っている。偉大で、穏やかな東郷さんは厳しさの中にも慈愛に満ちた人だった。
 関東大震災の9月1日、3番目の兄雄吾と一緒に、東郷さんの屋敷に駆け付けた。東郷邸は高台にあったが、塀がみな倒れて庭が丸見えだった。東郷さんは庭の真ん中にイスと机を出して、ドンと座り、悠々としておられる。火が近づくので危ないから避難するよう、お伝えした。東郷邸には1台の自動車があったが、車庫を囲んでいた大谷石が崩れているので、兄と私と運転手の三人で、石を片付け、自動車を引き出し「どうぞ危険ですからお乗りください」と勧めても「おれはここにいる」と言って聞いて下さらない。仕方なく夫人やお孫さんを自動車に乗せて新宿御苑に避難させたが、とうとう東郷さんは一人、庭で頑張られた。
 そのうち、風向きが変わったので安心して家に帰った。ところが、翌日また逆風となり、東郷邸の近くまで燃え広がったが、幸い類焼は免れた。普通の人なら、当然逃げるところだが、東郷さんは最後まで動かなかった。どういう心境かお訊ねしたかったのだが・・・。そんな経験もあった。

3.婦人セールスマンの貢献
昭和23年(1948)6月、私は44歳の若輩であったが、日本生命保険相互会社の社長に就任した。大会社は、いずれもトップが追放され、40代の若手社長が次々と誕生した時代である。
 戦後の生命保険事業の回復、発展に関して特筆すべきことは、婦人セールスマンの進出である。戦前は男性のセールスマンが中心であったが、戦後は女性が多くなり、現在日本生命では85%ぐらいになっている。このように変わってきたのは、世の中の動きやこれに対応した会社側の体制づくり、それにもまして、婦人セールスマンの方々の努力によるものだと思う。戦後、主人を亡くされた主婦や、主人とともに生計を立てようとする家庭婦人にとって、働きたくても就業の機会は少なかった。会社に入って非常にありがたかった。子供を大学にやれた等という話を聞くときは私も涙ぐむほどの喜びであった。
 また、人口が都市に集中し、サラリーマンが増え、生命保険が月掛け中心となったことが、女性にとって保険のセールスを馴染みやすくしたともいえる。月掛けで毎月集金にうかがうわけだから、セールスと集金を同じセールスマンが担当する方が、都合がいいからだろう。

4.日生劇場の誕生背景
生命保険は文化の向上とともに発展すると言われている。この意味からも、本来の事業の他に、文化、教育、スポーツ等の分野にいささかなりとも、お役に立ちたいと努めてきた。
 そうした活動の中で、昭和34年(1959)、日本生命が創業70年を迎えたのを記念して東京・日比谷に日生劇場を建設することにした。壁画は山口篷春、川島理一郎の両画伯、舞台第一緞帳の図案は杉山寧画伯というように、いずれも当代巨匠にお願いした。
 この劇場のこけら落としは、昭和38年〈1963〉10月20日、ベルリン・ドイツオペラを招いて行われ、11月9日には天皇・皇后両陛下、西独リュプケ大統領夫妻もご来場になられた。今日まで、数々の演劇、オペラ、音楽の発表の場として、多くの人に親しまれ、大切に使われているのを見るのはうれしいことである。
 この劇場完成とともに、児童を対象とした日生名作劇場を始めた。これは、日本の次世代を担う子供たちに、良い劇場で質の高いミュージカルを鑑賞してもらうことによって、子供たちの情操を高める一助にしたいと考えたことから始まった。浅利慶太さんを初め、関係者の熱意と努力によって、今年で15年目を迎えた。

ひろせ げん

弘世 現
生誕 成瀬 現
(1904-05-21) 1904年5月21日
東京市麴町区
死没 (1996-01-10) 1996年1月10日(91歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学経済学部
職業 実業家
成瀬隆蔵
栄誉 紺綬褒章(1958年)
藍綬褒章(1965年)
勲一等瑞宝章(1974年)[1]
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弘世 現(ひろせ げん、1904年(明治37年)5月21日 - 1996年(平成8年)1月10日)は、日本の実業家日本生命社長。同社の「中興の祖」と呼ばれた弘世助太郎娘婿

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