広瀬経一 ひろせ けいいち

金融

掲載時肩書北海道拓銀会長
掲載期間1968/08/21〜1968/09/09
出身地香川県寒川
生年月日1896/03/07
掲載回数20 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
京都大学
学歴その他三高
入社大蔵省
配偶者級友の妹(彼は私の妹)と結婚
主な仕事大阪、東京、札幌、国民政府全国経済委員、拓銀、札幌商工会議所
恩師・恩人石渡荘太郎
人脈菊池寛(高中先輩)、三井高公(京大)、太田垣四郎、長沼弘毅、竹鶴政孝、堀江薫雄、増田甲子七、町村金吾、東条猛猪
備考代々庄屋、高松戦災7.4
論評

明治29(1896)年3月7日―昭和61(1986)年2月18日、香川県生まれ。大正9年大蔵省入省、昭和17年神戸税関長を最後に退官。20年拓銀副頭取、22年頭取に就任、37年会長となり48年から相談役。この間、札幌商工会議所会頭、北海道商工会議所連合会会長、北海道開発審議会会長などを歴任。

1.お互いの妹を妻に(良友とお互い義弟に)
大学3年のとき、すでに私の妹、峯子と結婚していた中学の友人、義弟の徳田源一が京都の下宿へ彼の妹の写真を持ってきた。「どうだ、おれの妹をもらわんか」という。聞けば郷里の両家では既に了解済みというので、暫くして高松市から西一里の鬼無(きなし)にある徳田家で見合いをした。広瀬と徳田家は母親が従妹同士で、昔の結婚は家柄と財産を基準にした家と家との縁結びであったから、本人は否応もない、父親同士の話し合いで結婚が成立、大正9年(1920)1月12日、冬休みで帰省しているとき高松の自宅で結婚式を挙げた。私は23歳、妻志万子は満19歳の誕生日が結婚式だった。
 結婚式は父の姉だった伯母夫妻が仲人で、両家のごく内輪の者だけが集まったが、披露宴は親類を始め父の友人、小作人まで三日三晩入れ代わり立ち代わり来て酒を飲んだ。全部父の関係者で私の友人は一人も呼ばれなかった。「こりゃあ、おやじの結婚式みたいだナ」と思いながら3日間付き合わされた。

2.ニッカウヰスキーの品質を鑑定する
昭和14年(1939)6月8日、札幌税務署長を命ぜられた。在任中にニッカウヰスキーの品質証明問題が起こった。寿屋(現サントリー)を辞めた竹鶴政孝氏がスコットランドに似た気候のうえ、ピート(草炭)も豊富な余市にウィスキー原酒工場つくり5年間貯蔵した第一号ウィスキーを売り出そうとしていた。昭和15年には酒の公定価格が決められており、新発売のニッカウヰスキーにも同庁長官がマル公決定権を持っていた。
しかしそれには税務監督局鑑定部の品質証明書が必要で、私は鑑定部長の意見に基づき余市の工場を視察したうえ「サントリーと品質において劣らざるものなり」との証明書を戸塚長官に提出、ニッカはサントリーと同じ一級の価格で売られるようになった。私は別にウィスキーの通というわけではないが、酒の専門家である鑑定部長を信ずる一方、日本で初めてサントリーの山崎工場をつくった竹鶴さんが、独立して精魂を込めた製品が劣るはずがないと思っただけである。

3.北海道拓殖銀行の発展
昭和20年(1945)2月10日、私は拓銀副頭取に就任した。着任当時の拓銀は預金高15億6千万円の拓殖債権銀行で、「割賦貸し付け」という農地を担保にカネを貸す業務が中心だった。しかし不動産金融のほか短期貸し出し、為替、預金など普通銀行業務も兼業していた。金融統制の“一県一行主義”で次々と道内金融機関を合併、終戦時には樺太、北海道にまたがる唯一の銀行だった。当時の頭取は七代目の永田昌綽(まさのぶ)氏で東大独法科卒業後ただちに拓銀入りした初めての“生え抜き”頭取でした。
 昭和22年4月、永田さんは頭取をやめて相談役に退かれた。とうとう私は頭取を引き受けることとなった。翌23年3月、拓銀は再建整備法に基づき不良債権を切り捨てるため9割減資を強行、資本金を416万2千円にした。さらに半年後には100倍強の増資をして新資本金は5億円となった。
 こんな荒療治が効いたのか、拓銀の預金量は減資時の78億円から1年後には202億円、2年度には311億円と飛躍的に伸びた。戦後は大企業の外地支店がなくなって、代わりに残された唯一の開拓地として北海道に支店を設ける会社が多く、これら大企業の出先は金融ひっ迫のため地元で資金調達を行った。一方、復興金融公庫が石炭産業振興を重点に北海道へ大量の資金を投入したことも拓銀が大きく伸びた原因であろうか。

広瀬 経一(ひろせ けいいち、旧字:廣瀨經一。1896年3月7日 - 1986年2月18日)は、日本の大蔵官僚銀行家北海道拓殖銀行頭取を務めた。香川県出身[1]

  1. ^ 人事興信所 1985, ひ100頁.
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