掲載時肩書 | 日魯漁業社長 |
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掲載期間 | 1958/04/05〜1958/04/26 |
出身地 | 北海道函館 |
生年月日 | 1881/11/09 |
掲載回数 | 22 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 東京外国語大学 |
学歴その他 | 露清語学校(現・東京外語大) |
入社 | 北洋漁業 |
配偶者 | 堤清六・ 妹妻 |
主な仕事 | 兵役、堤商会、鮭缶、日魯漁業(合同)、北洋3社統一、終戦、日魯再建、運輸大臣(吉田)、日ソ協会 |
恩師・恩人 | 堤清六(義兄) |
人脈 | 福本先輩、デンビー、久原房之介、河野一郎(日魯副社長)、三木武吉、杉山茂丸(頭山満)、鳩山一郎 |
備考 | 北洋漁業50年 |
1881年 (明治14年) 11月9日 – 1974年 (昭和49年) 4月4日 )は北海道生まれ。 実業家 、 政治家 。 北洋漁業 の先駆者として知られる。 第6代 運輸大臣 。 北海道 選出の 代議士 として初めて入閣した。 安土桃山時代の武将平塚為広の末裔。 中野二郎が設立した札幌露清語学校でロシア語 を学んだ。 北洋の漁場開発を志し、カムチャツカ半島に渡ってサケ ・ マス の漁場調査をおこなった。 1905年 (明治38年)、 ポーツマス条約 によってロシア領沿岸での 漁業権 を獲得。 堤清六 とともに 新潟市 に堤商会を設立し、ロシア領海内で操業を開始。
1.旅順二〇三高地の激戦に応戦
明治37年(1904)2月、陸軍砲兵として旭川第七師団に入営し、日露開戦となって出征、旅順攻撃から奉天大会戦に参加した。この時の二〇三高地攻撃は凄惨を極め、味方の半ば以上は戦死、私が属した野砲隊は集中攻撃を受け、雨と降り注ぐ敵弾のため戦友の大半が戦死、砲手の私は夢中で砲架に隠れながら撃ちまくったが、文字通り耳元に炸裂する百雷のような砲声に、右の鼓膜を破られ、未だに右の耳は聞こえない。今でも思うと慄然とするが、次々に倒れる戦友の死体を目の前にして、あまりの苦しさに死んでもいいと思い、薄暮、砲声が小やみになったころ、ただ一人敵陣に駆け上がってみると、敵陣もまた死傷者が重なり合い、攻撃の力を失っているのを見て、声をあげながら戻ると、いきなり隊長から「バカヤロウ、命がいらぬのか」と怒鳴られて、ハッとしたものだった。実際にケガ一つなかったのは運が良かったのだろう。
2.堤清六(義兄)と私
堤と私がカムチャッカ半島のブロンゲ岬で初めて会ったときから、古くからの友達のように思い、それ以来、一心胴体となって北洋漁業を切り開いてきた。そんな関係から堤の伯父や両親から、堤の妹を紹介され、明治45年(1912)、私が30歳の正月に結婚した。
とにかく函館時代の堤商会はいつもピーピーであり、毎年春の仕込みは借金で、秋の切揚げを待って決裁したもので、不漁の年などはその言い訳に大の男が汗をかく始末であった。しかし堤は、どんな苦しい時でも、しょげた顔を見せたことがなく、いつもどっしり構えて、誤りのない決断をし、しかも政治的に見事に解決する手腕を持っていた。一方、私は仕事の虫で、人に引けを取るのが嫌いな勝気な性分で、この組み合わせが返ってぴったり合ったのであろう。これがどしどし事業を進めさせたので、堤商会の背骨となったものだった。だから義兄と義弟、どちらも欠くことのできない存在だった。
3.日ソ協会の設置
1945年の終戦後、ある人が「日魯漁業はソ連百科事典に海賊会社と書かれている。ヒラツカはその社長で有名だから、ソ連に行くと戦犯として捕まり、帰れなくなるだろう」というのだ。とんでもない話だ。ポーツマス条約で正当に漁をするのが海賊なら、国営と言ってこちらが開拓して漁場を次々と取上げたソ連は強盗だろう、そんなベラボウな話はないと憤った。その後、いろいろ日ソの国交回復の下準備をしていた。
昭和29年(1954)12月、8年の長期にわたった吉田内閣も総辞職し鳩山一郎内閣が生まれた。いろいろ紆余曲折を経たがソ連からも国交回復機運が高まり、31年10月鳩山首相自身のモスクワ出馬で、遂に国交回復共同宣言となり、いわゆる戦争状態なるものが取り除かれた。この裏話として交渉の途中、ソ連がブルガーニン・ラインを設定して、日本を北洋公海漁業から締出そうとしたのだった。ここは公海だと言っても、日本は負けた国で、ソ連とはまだ戦争状態というのだからどうにもならない。そこで漁業条約となったが、国交回復しなければ効力無しというので、これが復交を早めることになったのである。こうなると戦後私が考えたように、日本の復興はどうしても各国と完全な平和関係でなければダメだということを、マザマザと見せつけられたわけである。そこで正式の平和条約の締結に向けて「日ソ協会」を設立したのである。
平塚 常次郎 ひらつか つねじろう | |
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1953年撮影 | |
生年月日 | 1881年11月9日 |
出生地 | 日本 北海道函館 |
没年月日 | 1974年4月4日(92歳没) |
出身校 | 札幌露清語学校退学 |
所属政党 | (日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) (分派自由党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
選挙区 | (北海道第1区→) 北海道第3区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1946年 - 1947年 1952年 - 1953年 1955年 - 1960年 |
平塚 常次郎(ひらつか つねじろう、1881年〈明治14年〉11月9日 - 1974年〈昭和49年〉4月4日)は日本の実業家、政治家。北洋漁業の先駆者として知られる。第6代運輸大臣。北海道選出の代議士として初めて入閣した。