掲載時肩書 | ソニー元社長 |
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掲載期間 | 2025/04/01〜2025/04/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1960/12/22 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 64 歳 |
最終学歴 | 国際基督教大学(ICU) |
学歴その他 | アメリカンスクール |
入社 | CBSソニー |
配偶者 | 帰国子女・ICU同級生 |
主な仕事 | 外国アーチスト世話、海外法務、プレイステーション参加、SCE社長、スマホと戦争、ソニー本体社長、社是「感動」共有、PC売却、全社分社化、57歳退任、 |
恩師・恩人 | 丸山茂雄 |
人脈 | 西尾忠男、久保田利伸、久夛良木健、アンディ・ハウス、ジャック・トレトン、吉田憲一郎、今村昌志、髙木一郎、十時裕樹、井藤安博 |
備考 | 異見の尊重、EQ重視、 |
氏はソニー関係でこの「履歴書」に登場した、井深大(1962.12)、大賀典雄(2003.1)、江崎玲於奈(2007.1)、丸山茂雄(2022.7)に次いで5人目でした。氏は幼少から米国と日本の異文化に触れ、
異なる意見(異見)を尊重する習慣が身についた。会社発展の功績もそれに貢献した人物の名前を挙げ、丁寧に説明される謙虚な人でした。また、国際基督教大学(ICU)出身は東哲郎(東京エレクトロン:2021.4)に次いで2人目でした。
1.育った環境から異文化の異見に慣れる
中学3年でカナダのトロントから再び東京に戻ることになった。校則や「中学生らしく」でがんじがらめの日本の学校に戻るのかと思うと憂鬱でならない。逃げ道で思いついたのがカナダにも米国にもある日本人駐在員の子供向け補習校だった。日本にも米国人向けの学校がないものか。調べると日本にも米国人向けの学校があり、東京都調布市にアメリカン・スクール・イン・ジャパン(ASIJ)が東京の自宅から近くにあった。ありがたいことに両親は私の願いを受け入れてくれた。
こうして進んだASIJは行内に一歩足を踏み入れると、そこはもうアメリカだった。私にとっては理想の環境であった。大学の進学先もASIJの近くにあった国際基督教大学(ICU)に決めた。今思えばあの頃のICUほどダイバーシティが進んだ世界はないのではないか。各国からの留学生は勿論、日本人学生の出身も実に様々だ。物事の見方や考え方は国や出身によって異なる。勿論日本の中でさえ、普段の何気ない会話の中に「異見」が満ちていることに気づく。私は後に経営者になって「異見を求む」を常々口にした。ICUに至るまでの異文化体験の連続が原点になっている。
2.丸山茂雄さん
入社当時のCBSソニーには海外法務の専門家がほとんどいない。それなら自分がエキスパートになってやろうと、海外法務の勉強に没頭するようになった。こんなとき私の前に、CBSソニーが誇る名物オヤジが現れた。丸山茂雄さんだ。1968年の会社発足時からのメンバーで、ソニーにとって未知の領域だった音楽事業を切り開いてきたパイオニアだ。ロックに特化したエピック・ソニーを立ち上げたことで「ロックの丸さん」として知られていた。
それでいて私のような若手にさえ「ごめん。俺、良く知らないから教えてもらえないかな」と声をかけてくれる。いつも白のポロシャツとジーンズ。軽やかな空気を漂わせて、周囲の壁を一瞬で取り払う。相手が偉い人でも、私のようなペーペーでも同じだった。私は後に「リーダーはEQ(心の知能指数)が高くあれ」と自らに言い聞かせるようになるのだが、丸山さんがモデルだった。
3.久夛良木健さん
ソニーがゲーム事業を立ち上げ、「プレイステーションの父」と知られるのが久夛良木健さん。ゲーム参入にあたっては当初、任天堂と提携するはずが直前になって約束を反故にされた経緯がある。単独で参入すべきかどうかを決める会議で、当時ソニー社長だった大賀典雄さんに対して久夛良木さんが「本当にこのまま引き下がっていいのですか。ソニーは一生笑いものですよ」とけしかけたことは、ソニーの歴史を彩る名場面として語り継がれている。大賀さんが机を叩いて「DO IT」と叫び、参入を決断したことも・・。
久夛良木さんを中心に開発されたプレイステーションは1994年12月に日本で発売され、大ヒットとなった。翌95年9月の米国発売を控えて、尊敬する大先輩の丸山茂雄さんから「プレイステーションの仕事をちょっとさ、手伝って欲しい」と、私に声がかかった。
4.米国プレイステーション事業(SCEA)の再建
丸山さんの鶴の一声で米国拠点(SCEA)の実質トップになった私は、社員一人ずつと話し合うことから着手した。妙な派閥争いが横行し、社員がバラバラの方向を向いている。組織の病根を洗い直す必要があるのだが、狙いはそれだけではない。そしてこう考えた。この組織を立て直すには非常な決断も必要だ。リーダーならそこから逃げてはならない、と。
数百人いたSCE社員の中には、明らかに違う方向を向いている者や、会社の利益にならない動きをする者がいる。まずはそういう人たちに「NO」を突きつけることだ。退職も含めて、これはリーダーが自からやらないといけない。次にビジョンを共有することだ。それを実現するためにもクリエーターに寄り添う方針を掲げたのだった。そして実行した。
まずは社員の声に耳を傾け、ビジョンを示して組織の力を集約するやり方は、後にSCE社長になった時も、ソニー社長になった時も同じ。そう考えれば、ソニー全体から見ればちっぽけな組織に過ぎないSCEAでの経験が、私にとっての財産となった。
5.ソニー社長就任でソニーを変える
2012年4月2日、51歳でソニーの社長になった。終わったばかりの12年3月期の決算はこの時点でまだまとまっていないが結局、連結最終損益は4550億円もの巨額の赤字を計上した。赤字も4年連続となるが、傷口はどんどん広がり過去最大の金額に達していた。社長としての仕事は「ダメになったソニーを再建する」の一言に尽きた。この翌週、我々は3年間の中期経営計画を発表した。その記者会見で、私はこう宣言した。「ソニーを変える。ソニーは変わる。ソニーが変わるのは今しかない」と。そして社内の合言葉を「KANDO」(感動)として共有化することにした。
私にとって最初のターンアラウンド(再建)の仕事が、米ゲーム会社で、当時はアンディ・ハウスとジャック・トレットンという相棒に助けられた。規模が桁違いとなるソニーでも信頼できるチームの存在は不可欠だ。ソニーにとって最大の懸案が赤字続きのテレビ事業の再建というのは、衆目の一致するところだ。この点、私には頼れるコンビがいた。今村昌志さんと高木一郎さんだ。二人とも私の先輩にあたり、私とは違ってソニーの本丸たるエレクトロニクスを知り尽くしていた。
実は当初、テレビの再建は今村さんにお願いしたのだが、やはり百人力の高木さんが欠かせないと考えた。ただ、高木さんは当時、デジタルイメージング事業の本部長。テレビと同格の最重要事業といえる。私はある時、高木さんに「申し訳ありませんが、今村さんの下でテレビの副本部長をやってください」とお願いした。肩書きでいえば降格となる。しかし、高木さんは「承諾」してくださった。この言葉を聞いたとき、不覚にも涙をこらえることができなかった。こうしてソニーが誇るツートップを配置したテレビ事業は、2014年実に11年ぶりに黒字化に成功したのだった。
もう一つ、ソニーの子会社のソネットエンタテインメント社長だった、吉田憲一郎さんと右腕の十時裕樹さんに三顧の礼で本体ソニーに来ていただいた。十時さんはソニー銀行の立上げメンバーで、ソネットでは古い付き合いである吉田さんを経営企画や財務の担当として支えていた。私は「異見を求む」を信念とする。吉田さんこそ「異見」を私にぶつけてくれるチーム平井のキーマンであった。私の1年先輩にあたるが私の後継者として社長のバトンを渡した。
ひらい かずお 平井 一夫 | |
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生誕 | 1960年12月22日(64歳)![]() |
国籍 | ![]() |
民族 | 日本人 |
出身校 | 国際基督教大学教養学部社会科学科 |
職業 | 実業家 |
活動期間 | 1984年 - |
肩書き | ソニーグループ株式会社シニアアドバイザー |
任期 | 2019年 - |
配偶者 | 既婚(1989年 - ) |
受賞 | 第66回テクノロジー&エンジニアリング・エミー賞特別功労賞(2015年) |
署名 | |
平井 一夫(ひらい かずお、1960年〈昭和35年〉12月22日 - )は、日本の実業家。ソニーグループ株式会社シニアアドバイザー、一般社団法人プロジェクト希望代表理事。東京都杉並区出身[1]。学位は教養学士(国際基督教大学・1984年)。