掲載時肩書 | 日本サッカー協会会長 |
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掲載期間 | 2008/02/01〜2008/02/29 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1936/12/03 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | |
入社 | 古河電工 |
配偶者 | 友人従妹 |
主な仕事 | 東京五輪、日本リーグ総務、Jリーグ発足代表、W杯招致、新人俸給(大卒3000万円、高1500万→450万)、 |
恩師・恩人 | 吉岡たすく先生、 クラマーコーチ |
人脈 | 八重樫茂生、長沼健、岡野俊一郎、杉山隆一、釜本邦茂、宮本輝紀、小倉純二、大平裕、岡田武史、三浦知良、渡辺貞夫 |
備考 | 高円宮様ご夫妻に感謝 |
1936年12月3日 – )は大阪府生まれ。元サッカー選手、元日本代表監督。Jリーグ初代チェアマンを経て、第10代日本サッカー協会 (JFA) 会長を務めた。早稲田大学ア式蹴球部に所属し、日本代表として東南アジア方面に同行。当時イギリス領だった香港のクリケットのカントリークラブにある緑の芝生に驚き、さらにドイツ・デュースブルクスポーツシューレの環境を目の当たりにし彼我の差に愕然となる。日本サッカー協会が西ドイツサッカー協会にコーチの派遣を要請、デットマール・クラマーがコーチに就き、基本からの単調な反復練習に不満を感じるものの指導通りに出来ないことを自覚し焦る。1970年代半ば、古河電気工業サッカー部の監督を退任した川淵は仕事に専念する。なでしこJAPANの名称の生みの親としても有名であり、アテネオリンピックの際の女子サッカーの宣伝には若手アイドルタレントを多数広告塔に起用するなど話題を集めた。
1.クラマーコーチの指導法
昭和33年(1958)に東京で開かれたアジア大会で日本はまさかの2連敗、グループリーグで敗退した。翌年のローマ五輪予選も韓国に1勝1敗の得失点差で及ばず。ホストとなる東京五輪に向け、抜本的な強化の見直しを迫られた。そこで招聘されたのがデッドマール・クラマーさんだった。皇帝フランツ・ベッケンバウァーに請われバイエルン・ミュンヘンを率い、欧州王者にもなった名将だ。
クラマーさんは理論と実践を同時に示せる人だった。ポンと胸を突き出してボールを受け止めるトラップを教わった。野球のボールを曲がったバットで打つかい?インステップキックも同じだよ、足首を一直線に固定してボールに被せるように蹴りなさい・・。基礎技術が身につくとパス・ランやミート・ザ・ボール(自分から迎えに行け)といった基本戦術にステップアップ。これの繰り返しと習得が東京五輪の八強、メキシコ五輪銅メダルに繋がったことに議論の余地はない。
2.Jリーグの発足(日本サッカーリーグの総務主事として)
1989年7月1日にサッカープロリーグの名称を「Jリーグ」と発表、11月には社団法人日本プロサッカーリーグを発足させた。当初は8チームのスタートを考えていたが10チームに変更。それでも20から10に減らす必要が生じた。90年8月から91年1月までの間に綿密なヒアリングを行い、91年2月14日に参加10団体を発表した。住友金属、全日空スポーツ、三菱自動車、古河電工とJR東日本、読売クラブ、日産自動車、トヨタ、清水FC,松下電器、マツダである。落選組には実績のある日立、フジタ、ヤマハ、ヤンマーがいた。これを機に僕自身も退路を断つために古河産業を退社、30年の会社勤めに終止符を打った。
3.高円宮さまへの感謝
日本サッカー協会の会長になってまだ間もない、2002年11月21日、古河電工の同期会へ向かう車中に一報は届いた。「殿下が倒れられた」。会場につくと日本協会名誉総裁・高円宮憲仁親王の訃報が待っていた。殿下はまだ47歳、信じられなかった。慌てて高円宮邸に駆け付けると家の中へ通された。亡骸を前に初めて僕らの太陽であり誇りであり、世界に自慢できる殿下を失った衝撃と寂寥感が押し寄せてきた。妃殿下とお嬢様たちがいることも忘れ子供のように泣いた。
殿下がサッカー協会の名誉総裁になられたのは1987年4月。協会が大きな組織になる前で本当に好きで引き受けられた。それからの日本サッカーへの貢献は僕など足元にも及ばない。特にワールドカップ日韓共催が決まってからは、まさに「日本の顔」として世界中の要人と接していただいた。国内外での英語スピーチはウィットに富み、殿下の人柄に誰もが魅了された。だからこそ世界中の人がその死を悼んだのである。また、99年に南米サッカー連盟から勲章を贈られたとき、殿下は流暢なスペイン語でお礼のスピーチをされた。それだけでも驚きなのに、広大な牧場で催されたパーティでギターをプレゼントされた殿下はその場で、5,6曲見事な演奏をされた。何百人といた招待客は大歓声と拍手喝采だった。
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2015年の文化功労者顕彰に際して公表された肖像写真 | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | キャプテン、槍の川淵 | |||||
カタカナ | カワブチ サブロウ | |||||
ラテン文字 | KAWABUCHI Saburo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1936年12月3日(87歳) | |||||
出身地 | 大阪府高石市 | |||||
身長 | 172 cm(現役時代)[1] | |||||
体重 | 72 kg(現役時代)[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF、FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1952-1954 | 三国丘高校 | |||||
1957-1960 | 早稲田大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1961-1970 | 古河電工 | 68 | (10) | |||
通算 | 68 | (10) | ||||
代表歴 | ||||||
1958-1965 | 日本 | 26 | (8) | |||
監督歴 | ||||||
1970-1971 | 古河電工(Asistant) | |||||
1972-1975 | 古河電工 | |||||
1980-1981 | 日本代表 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
川淵 三郎(かわぶち さぶろう、1936年12月3日 - )は、日本の元サッカー選手、元日本代表監督。大阪府泉北郡高石町(現在の高石市)出身。2020年東京オリンピック選手村村長[2]。
Jリーグ初代チェアマンを経て、第10代日本サッカー協会 (JFA) 会長を務めた。早稲田大学第二商学部商学科卒業。
会長退任後は日本サッカー協会の名誉職を歴任しており、名誉会長を経て、2012年6月より最高顧問、2020年6月15日時点では相談役である。日本トップリーグ連携機構代表理事会長[3]。2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会評議員会議長[4]。日本バスケットボール協会エグゼクティブアドバイザー[5]。ジャパンサイクルリーグ名誉顧問[6]。一般社団法人Mリーグ機構最高顧問[7]。元公立大学法人首都大学東京理事長。実業界では、古河グループの古河産業の取締役を務めた。
公式な愛称は「キャプテン」、渾名は「サブ」。家族は妻と2女の4人家族。
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