掲載時肩書 | 東宝東和会長 |
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掲載期間 | 1980/04/03〜1980/05/02 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1903/04/30 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 中国北京大学 |
学歴その他 | ドイツ留学 |
入社 | 東和商事 設立 |
配偶者 | 社内結婚 |
主な仕事 | 映画輸入、ドイツ提携「制服の処女」「パリ祭」、日独、日中合作、東宝・東和合併 |
恩師・恩人 | 妻 |
人脈 | 寺田寅彦、城戸四郎、森岩雄(PCL→東宝)、伊丹万作・原節子、甘粕正彦(満映)、張善琨、山口淑子(の恩人)、八千草薫 |
備考 | 父:陸軍大佐、夫婦二人三脚 |
1903年4月30日 – 1981年5月24日)は東京生まれ。映画製作者、輸入業者。国際的映画人として、とくにアジアでは絶大な信用を有した。妻で長政以上の国際的知名度を持つ「日本映画の母」かしこ、娘の和子(伊丹十三の最初の妻、のちにフランス映画社社長の柴田駿と結婚)とともに「川喜多家の三人」として記憶される。1928年 東和商事(現・東宝東和)を設立し、名作映画『自由を我等に』『巴里祭』『会議は踊る』『女だけの都』『望郷』『民族の祭典』などを輸入、1937年 ドイツと初の合作映画『新しき土』を製作。
1.映画つくりの決意
大正12年(1923)にドイツの地方都市リンゲンの大学に留学した。20歳のときだった。ハンブルグの市立オペラ会館で「マダム・バタフライ」を見た。一見して驚いた。何という装置、何という衣装、何というメークアップだろう。すべてがでたらめだ。出演者のいやらしさ、むずむずして見ていられない。これを日本と思っているのか、日本に対する理解はまだこの程度なのかと思うと、不愉快でたまらない。
この「マダム・バタフライ」やリンゲンで知った外国人の日本に対する認識のなさが、私にはとてもつらかった。何らかの方法で、早く西洋の人々にわれわれの人情、風俗、習慣、文化を知らせなければいけない。
同時に映画というものの人々に訴える力の大きさも強い感銘をも受けていた。そう悟って、自分はこの映画の仕事を通じ、東西間の文化交流、理解の助長に尽くしたいと考えた。
2.妻と結婚、それから二人三脚
昭和3年(1928)10月東和商事会社を25歳で設立。その事務員に外国との文通、タイプ打ち、語学力のある女性20歳が入社。その女性(竹内かしこ)は和服で、しっかりした、感じのいい女性だったので翌年5月に結婚。それから52年、彼女は妻として、また会社のパートナーとして、私と一緒に働いて来た。わがままな私を、よく辛抱し、仕事として取り扱う映画を愛し、よく研究し、優れた作品を選択するために費やした彼女の努力は言葉に尽くせぬものがある。
日夜、試写室にこもり、半世紀もの間には1万5、6千にもなる各国映画を、日本の字幕なしで見てきたのである。1日に7,8本もの映画を、娯楽としてでなく、商品として見るのは大変な違いである。時間が惜しいので、食事も試写室で映画を見ながらサンドウィッチで我慢することもよくあった。
この彼女が晩年、日仏交流や国際文化交流で貢献したとして多くの名誉を得ることができたのだった。
3.PCL(東宝の前身)との縁
昭和8年(1933)の東和商事は「制服の処女」「巴里祭」などの評判で輸入映画も順調だった。この年、日本の映画界では新しい映画会社であるPCLが自主製作に踏み切り、その作品の配給全てを東和が引き受けることになった。
PCLは写真化学研究所の英語名の頭文字による略称で、昭和6年2月、最新の技術を誇る現像所として発足した。おりからのトーキー時代の到来で、録音スタジオとしての完備した設備を備えていた。初めは日活の作るトーキー作品全部の録音を請け負うことになっていたのが日活の営業状態の悪化のため話が壊れ、巨費を投じた録音スタジオが宙に浮いてしまった。そこで自主製作に乗り出したのだった。
PCLの製作責任者として陣頭指揮をしていたのが、後に東宝で活躍した森岩雄氏だった。その森氏が私を訪ねて来た。東和が松竹とうまくいっていたので、東和を通じれば松竹系の劇場で上映されるという目算があったのだ。
森氏と話し合ってみて、旧態依然とした日本の映画界に新風をもたらそうとするPCLの理想主義に私は共感を覚えた。この新しい芽をつぶしてはいけないと思った。そして東和はPCL作品を配給することにしたのだったが、このPCLがやがて東宝映画と名を変え、今日の東宝という大樹に成長した。
かわきた ながまさ 川喜多 長政 | |
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本名 | 川喜多 長政 |
生年月日 | 1903年4月30日 |
没年月日 | 1981年5月24日(78歳没) |
出身地 | 日本・東京 |
職業 | 映画製作者・輸入業者 |
ジャンル | 映画 |
活動内容 | 1928年 東和商事(現・東宝東和)を設立し、名作映画『自由を我等に』『巴里祭』『会議は踊る』『女だけの都』『望郷』『民族の祭典』などを輸入 1937年 ドイツと初の合作映画『新しき土』を製作 1939年 中華電影公司の最高責任者就任 1947年 公職追放 1950年 公職復帰 1951年 黒澤明監督『羅生門』のヴェネツィア国際映画祭出品に協力(同作は金獅子賞受賞) 1964年 藍綬褒章受章 1973年 勲二等瑞宝章受章 1968年 フランス共和国レジオンドヌール勲章シュヴァリエ受章 イタリア共和国功労勲章コンメンダトーレ受章 |
配偶者 | 川喜多かしこ |
著名な家族 | 川喜多和子(長女) |
公式サイト | プロフィール |
川喜多 長政(かわきた ながまさ、1903年(明治36年)4月30日 - 1981年(昭和56年)5月24日)は、映画製作者、輸入業者。国際的映画人として、とくにアジアでは絶大な信用を有した。
妻で長政以上の国際的知名度を持つ「日本映画の母」かしこ、娘の和子(伊丹十三の最初の妻、のちにフランス映画社社長の柴田駿と結婚)とともに「川喜多家の三人」として記憶される。
名の長政は、歴史好きの父がアジアに飛躍するようにと山田長政から付けたとされる。今日も川喜多一族の名は財団法人『川喜多記念映画文化財団』として映画界に燦然と輝いている。同法人は、日本映画の芸術文化の発展に甚大なる功績を残した映画人等に対して毎年「川喜多賞」を贈り表彰していることで有名である。
なお、鎌倉市に所在する邸宅跡は改修され、鎌倉市川喜多映画記念館として2010年4月に開館。土地は川喜多家が市に寄付し、市が5億円をかけて記念館を設立、毎年約3000万円の運営費を市が支払い、川喜多財団が運営している[1]。