掲載時肩書 | 前巨人軍監督 |
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掲載期間 | 1974/12/07〜1974/12/31 |
出身地 | 熊本県 |
生年月日 | 1920/03/23 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 54 歳 |
最終学歴 | 工業高校 |
学歴その他 | 熊本工 |
入社 | 巨人 |
配偶者 | 歯科医娘宝塚生 |
主な仕事 | 清貧暮らし、入隊、打撃開眼、渡米留学、 監督、座禅 |
恩師・恩人 | 水原監督・梶浦老師 |
人脈 | 吉原捕手(同期)、無名会(野村・瀬川、東電・木川田、興銀・中 山、物産・池田、トヨタ・石田)牧野茂、正力オーナー |
備考 | 父親:草競馬狂 |
1920年(大正9年)3月23日 – 2013年10月28日)は、熊本県生まれ。プロ野球選手(内野手、投手)・監督、野球解説者。現役時代より、その卓越した打撃技術から「打撃の神様」の異名を取り、日本プロ野球史上初の2000安打を達成した。戦時中から戦後におけるプロ野球界のスターとして活躍。終戦直後は「赤バット」を使用して川上のトレードマークとなり、「青バット」を使用した大下弘と共に鮮烈な印象を与えた。また、青田昇や千葉茂と共に第一次巨人黄金時代の打の中心選手だった。
1.入団背景
熊本市内の司旅館で、当時熊本工の後援会長をしておられた積さんを保証人に、鈴木さんという巨人軍の担当と入団の契約をした。条件は支度金3百円、月給110円、神宮の全国大会前の昭和12年(1937)9月のことだった。それから、2週間ばかり後、結成したばかりの南海から誘いがあった。条件は、支度金5百円、月給150円だった。これを聞いて私は「しまった」と思った。なにしろ私は少しでもお金が欲しかった。南海がもう少し早く来てくれていたなら、苦労している母親を少しでも助けられると思ったからだ。後日、巨人の鈴木さんから聞くと、巨人の目当ては捕手の同期吉原で、私は‘刺身のツマ’のようなものだったという。
2.米国野球留学
サンフランシスコ・シールズのオドール監督から日本選手の招聘があった。巨人軍から選ばれるとすれば、千葉茂君だと思っていた。理由は、私は水原体制の主流派から外れていたし、千葉君は親水原派の中心だったからである。ところが、予想に反して、巨人から一人というときに、水原監督は私を推薦してくれた。メンバーは、藤村富美夫(阪神)、杉下茂(中日)、小鶴誠(松竹)と一緒にカリフォルニアのモデスト・キャンプに参加した。
米国の野球を見て、一番驚いたことは、縦命令系統がすっきりしていることだった。監督‐コーチ‐選手という一本の筋が実にはっきりしている。コーチは監督の手足同然で、もし監督に反対意見をもつようだったら、即刻クビだという。選手は選手で、よく自分の本分をわきまえて、一生懸命やっている。この実態を勉強することで、チームの体制がどうあるべきか、目を覚まされた気持ちだった。
3.巨人のモットーをどう実践?
正力松太郎さんが巨人を作ったとき、3つの指針を示された。それは「巨人軍は強くあれ」「巨人軍は紳士であれ」「巨人軍は将来、米大リーグに追いつき追い越さなければならない」というものだった。
私の場合、「強くあれ」を次のように解釈した。例えば打者なら3割を10年間打ち続けること。その努力の持続と内容の充実があって初めて真の3割打者である。チームについても同じではないか。1回優勝したというのでは、それはたまたま勝ったということで、強いとは言えない。優勝を何年も続けて、しかもふさわしい内容があってこそ「強い」と言えるのだと、考えたのである。
それならどうすればよいか。私は、野球はやはり団体競技である以上、「フォア・ザ・チーム」ということを具体化することが一番大事だと思い、非情だと思われてもこれに徹した。
戦中・戦後のスポーツ史に輝く足跡を残した川上哲治氏が’13年10月28日93歳で亡くなった。現役時代に数々のタイトルを獲得したが、身長は172センチ、体重75キロであった。私が小学生のとき、水原茂監督が毎年郷里高松の春のオープン戦に巨人軍を率いてきてくれたが、そのときの川上選手は見上げるような大男にみえた。
この履歴書に登場したプロ野球選手は、川上哲治、鶴岡一人、別所毅彦、西本幸雄、杉下茂、稲尾和久、野村克也、長嶋茂雄、吉田義男、広岡達朗の10人である。400勝投手の金田正一や野茂英雄投手、松井秀喜、イチロー選手も書いて欲しいものだ。
履歴書の圧巻は、「球が止まって見える」箇所の記述である。スランプ脱却のために、多摩川で二軍から応援の投手を相手に夢中で打ち込んでいた。そのうち、投手が球を投げる、構えて足を踏み出す、目の前で球がピタリと止まる、止まるところを打つ、というリズムが自然に生まれてきた。「今まで探し求めてきたバッティングのコツはこれだな」と内心で思いながら夢中で打っていたが、しばらくしてハッと我に返った。マウンド上で投手がボールを持ったまま、立ち尽くしている。「どうした」と聞くと「もう勘弁してください」という。不審そうな顔つきをする私を見て、彼は「もう一時間以上打っています。数にして300球以上です」と、本当に疲れ切った表情をした。
選手時代(1952年以前) | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 熊本県球磨郡大村(現:人吉市) |
生年月日 | 1920年3月23日 |
没年月日 | 2013年10月28日(93歳没) |
身長 体重 | 174 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 一塁手、投手 |
プロ入り | 1938年 |
初出場 | 1938年5月1日 |
最終出場 | 1958年10月21日(日本シリーズ第7戦) 1975年3月23日(引退試合) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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野球殿堂(日本) | |
選出年 | 1965年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について |
川上 哲治(かわかみ てつはる[注釈 1]、1920年(大正9年)3月23日 - 2013年(平成25年)10月28日[1])は、熊本県球磨郡大村(現在の人吉市)出身のプロ野球選手(内野手、投手)・監督・解説者。
妻は宝塚歌劇団娘役の代々木ゆかり(在団1936年 - 1944年)。ノンフィクション作家の川上貴光は長男。
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