掲載時肩書 | 宇宙開発事業団理事長 |
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掲載期間 | 1975/04/28〜1975/05/26 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1901/05/20 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 鉄道省 |
配偶者 | 鉄道建設 局長娘 |
主な仕事 | 父:広軌論、D51、欧米外遊、自動車、弾丸列車、下山事件、住金顧問、副総裁技師長、新幹線 |
恩師・恩人 | 斯波忠三教授、十河信二総裁 |
人脈 | 正田健次郎、山口利彦、山際正道・駒井健一郎(一高)下山定則(大学)、大石重成、後藤新平(初代総裁) |
備考 | 父:東大教授、趣味:コーラス、スキー |
1901年(明治34年)5月20日 – 1998年(平成10年)3月18日)は大阪生まれ。昭和初期 – 中期の鉄道技術者。「デゴイチ」の愛称で知られる貨物用蒸気機関車D51形の設計に関与。また新幹線計画では、国鉄総裁の十河信二や新幹線総局長の大石重成らと共にその実現に大きく貢献し、「新幹線の生みの親」と称される。国鉄退職後は、宇宙開発事業団でロケット開発にも携わった。鉄道技術者で弾丸列車計画を推進した島安次郎は父。次男の島隆は新幹線の初代車両「0系」の設計に参画したほか、新幹線輸出第一弾となる台湾高速鉄道の顧問も務めており、島一家は、父から子への3代にわたり高速鉄道技術開発に携わっている。なお、末弟に国産旅客機YS-11の開発に携わった島文雄がいる。元日本国有鉄道(国鉄)技師長(1955年 – 1963年)。元宇宙開発事業団(NASDA。宇宙航空研究開発機構初代理事長。
1.一年間の実習
鉄道省入省は大正14年(1925)4月であった。5月になると、私は実習として大宮工場へ配属された。ここでは、職工さんと全く同じ勤務で朝早くから出勤し、菜っ葉服に地下タビで機関車の修理から習い始めた。もっとも最初は当時の高等小学校を出たばかりの人たちと一緒に見習いのコースをやらされ、ハンマーのふり方、ヤスリのかけ方など初歩的な、しかしなかなか熟練のいる仕事を徹底して教え込まれた。
機関車の修理作業は、まず修理に入ってきた機関車の解体作業から始まり、次には解体した油で汚れている部品をカセイソ-ダで煮沸する作業となる。そして摩耗しているもの、欠損しているものについて修理が可能か不可能かを判定・検査する作業に入り、最後に修理したものを組み立て、試運転するのである。
2.弾丸列車計画
昭和15年(1940)1月、私は弾丸列車計画の主に車両関係の仕事を担当することになった。当時は満州と日本を往来する人、貨物は飛躍的に増えており、輸送力の増強は急を要する問題であった。そして父がこの計画委員会の委員長に選任されていたのである。
この計画では、大陸並みの大きな輸送能力のあるしかも全く新しい線路を敷くわけだから、スピードも在来のものよりは速くというのが目標になっていた。東京・大阪4時間、東京・下関9時間ということで、勿論広軌鉄道にするということであった。私は車両を担当していたが、こんな車両にしたいから線路はこうして欲しいといった議論は土木関係の技師と協力してやっていた。このように担当は違ってもそれぞれが深く関係しあうわけで、各分野の専門家が集まっては積極的な議論を展開したものである。
機関車の性能、そして速度、さらにその速度ですれ違う場合に、お互いに影響し合うことの無い線路と線路の間隔、あるいはカーブを走る場合の列車の速度と線路の傾けかたなどについての議論は、後の東海道新幹線建設にあたって非常に参考になった。しかし、太平洋戦争が始まり計画は中止となった。
3.新幹線構想
昭和30年(1955)12月十河信二総裁の要請により、国鉄理事・技師長して復職した。まず手始めにやったのは動力近代化の完成であった。この動力近代化と同時に主要幹線の複線化計画も進めた。基本的には幹線は電化、複線化すべきだとの考えである。新線を東海道線に沿わせるとすると、既に人口密度も高く、地価も高い。そして立体化しなければならぬ交差道路の数だって多くなることが考えられる。
ここまで来ると考え方はさらに広がる。自動車道路をハイスピードレーンとロウスピードレーンに分けるように、鉄道にもこの考えを採り入れたらどうか。具体的には在来の東海道線をロウスピードレーンに、新線をハイスピードレーンにする具合である。この考えから、急行用の新線はそれの止まる主要な駅にだけ立ち寄るようにし、そこで在来線に乗り換えることができる考えで、東海道の別線建設計画は発展し、今の新幹線のイメージができ上って行ったのである。この構想を強力に支持してくれたのが十河総裁であった。