掲載時肩書 | 島精機製作所会長 |
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掲載期間 | 2021/03/01〜2021/03/31 |
出身地 | 和歌山県 |
生年月日 | 1937/03/10 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 84 歳 |
最終学歴 | 工業高校 |
学歴その他 | 和歌山工業校 |
入社 | 池永製作所 |
配偶者 | 高校友 |
主な仕事 | 18歳で特許、独立、全自動手編み機、横編み機SEC、CGシステム、直販体制、小型機に転換、国際展開 |
恩師・恩人 | 森林平、上硲俊雄、奥田久男 |
人脈 | 岩城仁三郎、早川禎一、後藤武治、粉川安夫、柳井正、ベネトン・グループ |
備考 | 利益3分法 |
この「履歴書」で地方の時代で採り上げられた経営者は本坊豊吉氏(薩摩酒造:1988.9)と岡山の林原健氏(林原:2003.4)がいましたが、最近では長崎県の高田明氏(ジャパネットたかた:2018.4)が創業者で登場しました。一部上場の優良企業に昇りつめていくサラリーマン経営者のご苦労も迫力があり、生き方の勉強になりますが、今回の島氏の資金難克服には、明治・大正・昭和の創業者苦労とまったく同じで、ハラハラドキドキの連続でした。そういう意味で最近にない興味深い履歴書となりました。印象に残った箇所は、
1.発明人生の成功数字は「3」
成功の端緒は数字の「3」だった。私は生来この数字が好きでワンツースリーの三段跳びや三角関数、編み物の基本動作はニット、タック、ミスの3パターンといった具合。長男の名も「三博」だ。ある時、取引先の工場見学で見かけた印刷機械の色料の三原色(マゼンタ、シアン、イエロー)をヒントに横編み機の柄出しを全自動化できるシステムを思いついた。
この発想は後年、コンピュータグラフィックス(CG)の開発に結び付く。米フォードの新車設計など工業向けのほか、映画やテレビなどエンターテイメントの需要も発掘。さらに「魔法の編み機」といわれた完全無縫製ホールガーメント機にも繋がっていく。コロナ禍でも絶望することはない、人類には知恵がある。
2.資金難・救済主のもう一つの助言
60万円の手形決済が翌日に迫った1964年12月24日、クリスマスイブに初老の紳士・上硲俊雄さんが風呂敷包みから100万円を取り出し、「明日の決済に間に合うようカネを持ってきたで。領収書はいらん。そんなもん書いている暇があったら仕事をしなはれ。返済はカネができてからでええから」。私はしばし茫然。
そして、上硲さんは私におカネを渡す際、「手形の決済を差し引いたカネは無駄使いしたらあかんで。まずは正月を控えた社員に餅代として1万円ずつ配ってあげなさい」とアドバイスしてくれた。当時の従業員は約30人。100万円から手形の60万円を落とすと残り40万円。一人に1万円ずつ配り、残った10万円は展示会の費用に使った。従業員には年越しの1万円臨時ボーナスが思わぬ喜びのプレゼントになった。
大晦日の新型機完成後、正月を返上し、従業員総出で展示会の会場設営ができたのもボーナスによる士気高揚の賜物だと思う。上硲さんの経営者としての目配り、心遣いは後々まで非常に参考になった。
3.利益3分法
新型の全自動角型手編み機の受注が増え、1965年3月に月産10台だったのが、年末には130台の水準まで飛躍した。業績は良くなったが、納品後しばらくすると「故障が多い」と苦情が相次ぐようになった。
そうなると社員は製造と修理に手間取り深夜の帰宅も珍しくなくなった。こんなことを続けていたら早晩社員も疲労困憊し、行き詰まるのは目に見えている。そう考えた私は翌年、それまでの増産体制を撤回した。月産台数を100台に抑える一方、品質の向上を重視して部品加工の段階から精度を高めていくよう求めた。その結果、編み機の品質が見違えるように安定していったのである。
「増産手当」も改め、夏2・5か月分、冬3か月分の賞与とは別に会社の利益に応じ3回目のボーナスを支給することにした。税引き前利益を会社4、株主4,社員2の割合で配分すると、税引き後利益の受領額が会社、株主、社員の3者で同じになる。私はこれを「利益3分法」と名付け、実施した。
加えてもう一つ。社員の生産性向上策として始めたのが、島精機製品のユーザーになってくれた顧客を対象にした研修制度である。納品後の苦情は部品の精度不足に起因するものが最も多かったとはいえ、私が開発した全自動編み機が従来の編み機に比べて構造が複雑で、操作が難しかったことも一因だった。
そこで顧客企業の担当者に1泊2日程度の日程で島精機に来てもらい、機械の構造から使い方、修理方法まで伝授することにした。これにより次第に顧客との信頼関係ができコミュニケーションが深まり、苦情はみるみる減っていった。苦情から解放された社員たちは生産に専念できるようになったのだった。