掲載時肩書 | 元首相 |
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掲載期間 | 1959/01/01〜1959/01/16 |
出身地 | 山口県 |
生年月日 | 1896/11/13 |
掲載回数 | 16 回 |
執筆時年齢 | 63 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 農商務 |
配偶者 | 岸に養子、許嫁19歳 |
主な仕事 | 家業:酒造、一高(義太夫)、我妻栄と首席争い、上杉慎教授から後継者要請うけ |
恩師・恩人 | 松岡洋右(叔父) |
人脈 | 曾祖父(県令)伊藤博文・井上馨と親交、兄市郎、弟栄作、常の花(小)、我妻栄(同級) |
備考 | 10人兄弟姉妹の5番目、趣味(カモ,兎、鳥、ウナギ獲り)、長の陸軍、薩の海軍 |
1896年〈明治29年〉11月13日 – 1987年〈昭和62年〉8月7日)は山口県生まれ。政治家、官僚。東京帝国大学卒業後、農商務省、商工省にて要職を歴任。建国されたばかりの満州国では国務院高官として満州産業開発五カ年計画を手がける。その後、日本の商工省に復帰し、次官に就任。東條内閣では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として軍需省の次官を兼任する。「昭和の妖怪」と呼ばれた。
「履歴書」では人生の生い立ちから社会に出るまでの思い出を16回で綴っている。
1.家業・・・「ひねり餅」が楽しみ
私の家業は酒造業であった。毎年暮れになると祝島から杜氏が一番手子を連れてきて仕込みが始まる。二番手子以下は近所の若い者を雇い入れた。約4か月ぐらいの間これらの元気の良い若者の歌う声が酒造の内外ににぎわったものである。
私たち子供は、蒸しあがった麹米ができ上がるのが楽しみで、翌朝起きがけに杜氏たちの居間に出かけて、前夜にできたひねり餅を貰い焼いて食べた。この居間は囲炉裏を切って火がカンカンにおこっていた。このひねり餅は香ばしくてなかなか乙な味わいのするものであった。
2.戸外の楽しみ
春のわらびとり、夏のウナギ釣り、秋のマッタケ狩りと続いて冬のウサギ狩り爽快なものである。
冬はメジロ、ホオジロなどの小鳥捕りのほか、本家の伯父に連れられて、ウサギやカモ猟に出かけた。
メジロはおとりを持ち、友鳥を呼ばして鳥かごのそばへ適当に鳥もちを張っておいて捕るのである。
ホオジロは縄で捕った。わなは稲穂をさげておき、これをつつくと、箕(み)が上からかぶさるようにしておく。雪の降った時など、雪のため田から餌を拾うことのできないホオジロは容易に引っかかるのである。
小鳥とりと違ってウサギ狩りやカモ猟は骨が折れるが爽快である。ウサギ狩りは伯父のところの猟犬を連れて出た。ウサギのいそうな山へやって行き、ウサギの通りそうなところへウサギ網を張っておく。こうして犬を放してウサギを見つけさせるのである。猟犬がウサギを見つけると勢いよく吠え出すので、それっとばかり網の張番たちに警戒させる。ウサギが網に飛び込むと、くるくると網が体にまといつくようになっていて難なくとれる。
また、カモ猟は「千本」というやり方で捕った。これは竹をハシのように削って3,4尺ぐらいの長さにし、それに鳥もちをつけ、カモの来る水田に無数に立てておくのである。羽ばたきも勇ましく飛んできたカモは、鳥もちの付いた竹ばしにくっつき、バタバタするほど多くの竹にくっつかれてつかまえられる。カモは月夜でない方が良い。月夜だと近くに隠れている人影が見えたり、千本が鳥を驚かして引っかかる寸前で逃げる危険があるからである。
3.我妻栄君
私が一高に入った年は大正3年(1914)で欧州大戦が始まった年だった。翌年は東京駅が落成して、神尾大将が青島から凱旋したのを迎えて盛大な開通式が行われた。大学に入った大正6年(1917)から9年春の恐慌までは、わが国は空前の戦争景気を現出した。
大学の入学試験はドイツ語の筆記試験だけで難なく通過した。その頃の大学は大部分の講義が筆記で教科書を用いなかった。私は当時まじめに講義を聴き我妻栄君と二人でいろいろと議論を戦わせたものだった。大学一年のときの成績は、89点1分で我妻君と同点同分となり、級中で断然頭角を現した。点数制度は一年だけで廃止になり、以後優良可でつけられたが、私と我妻君との成績は囲碁でいえばジゴというところではなかっただろうか。
私は卒業年の4月、上杉慎吉教授から後継者として憲法講座を担当すべく大学に残ることを懇請された。小川正儀君などの先輩もしきりにすすめてくれた。しかし私は前年の暮れ、農商務省に採用されることが内定しており、行政官として世に立とうとしていた。学者として立つ自信も希望もなかった。
4.卒業前の結婚24歳
大正8年(1919)すなわち大学卒業の前年11月3日の明治節に私は郷里で良子と結婚式を挙げることとなった。私が24歳、良子が19の歳である。私どもは数年起居を共にし許嫁の間だったので、結婚式といってもいわば結婚披露宴ともいうべきものだった。
東京では親しい友だちを招いて披露かたがた小宴を設けただけだった。したがって私どもの結婚式は一般に行われるような形式や、華やかさは持たず、その際に感ぜられるような興奮や思い出は残されなかった。いわば結婚式当日の式次第を数年にわたってなし崩して行ったようなものだった。
岸 信介 きし のぶすけ | |
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生年月日 | 1896年11月13日 |
出生地 | 日本 山口県吉敷郡山口町(現:山口市) |
没年月日 | 1987年8月7日(90歳没) |
死没地 | 日本 東京都新宿区(東京医科大学病院) |
出身校 | 東京帝国大学法学部卒業 |
前職 | 商工省官僚 |
所属政党 | (翼賛政治会→) (護国同志会→) (無所属→) (日本再建連盟→) (自由党→) (無所属→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 | 正二位 大勲位菊花大綬章 勲一等旭日桐花大綬章 法学士(東京帝国大学・1920年) |
配偶者 | 岸良子(従妹) |
子女 | 長男:岸 信和 長女:安倍洋子 |
親族 | 佐藤信寛(曽祖父) 佐藤信彦 (漢学者)(祖父) 佐藤秀助(父) 佐藤市郎(兄) 佐藤栄作(弟) 岸 信政(養父・伯父) 安倍晋太郎(娘婿) 安倍寛信(孫) 安倍晋三(孫) 岸 信夫(孫) 岸信千世(曽孫) 佐藤寛子(従妹) 佐藤信二(甥) |
サイン | |
第56-57代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 第1次岸内閣 第1次岸改造内閣 第2次岸内閣 第2次岸改造内閣 |
在任期間 | 1957年2月25日 - 1960年7月19日 |
天皇 | 昭和天皇 |
内閣 | 石橋内閣 |
在任期間 | 1957年1月31日 - 1957年2月25日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第79-80代 外務大臣 | |
内閣 | 石橋内閣 第1次岸内閣 |
在任期間 | 1956年12月23日 - 1957年7月10日 |
内閣 | 東條内閣 |
在任期間 | 1943年10月8日 - 1944年7月22日 |
第23代 商工大臣 | |
内閣 | 東條内閣 |
在任期間 | 1941年10月18日 - 1943年10月8日 |
その他の職歴 | |
衆議院議員 旧山口2区 当選回数 10回 (1942年4月30日 - 1943年10月8日[1]) (1953年4月20日 - 1979年9月7日) | |
第3代 自由民主党総裁 (1957年3月21日 - 1960年7月14日) | |
自由民主党最高顧問 総裁:中曽根康弘 (1982年 - 1987年) | |
初代 自由民主党幹事長 総裁:鳩山一郎 (1955年11月 - 1956年12月) |
岸 信介(きし のぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月7日)は、日本の政治家、官僚。1957年から1960年まで内閣総理大臣(第56・57代)を務めた。位階勲等は正二位大勲位。出生名は佐藤 信介(さとう のぶすけ)。
他満洲国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(10期)、自由民主党幹事長(初代)、自由民主党総裁 (第3代) 、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣臨時代理、皇學館大学総長 (第2代) を歴任した。東洋パルプ、日本再建連盟の会長も務めた。A級戦犯被疑者として収監されるが、不起訴となったのち米国CIA(中央情報局)のエージェントとして活動し[2][3][4]、戦後にも権力を得た。1964年から1972年まで内閣総理大臣を務めた佐藤栄作の兄。
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