掲載時肩書 | 元法相・法博 |
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掲載期間 | 1957/08/07〜1957/08/26 |
出身地 | 山口県 |
生年月日 | 1875/04/07 |
掲載回数 | 20 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 山口 高専 |
入社 | 東京日日新聞 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 弁護士、伊藤公と面談、雑誌「明義」、乃木将軍の遺書預かり、政界 |
恩師・恩人 | 伊藤博文 |
人脈 | 柴田家門、山県有朋(伊藤公の政敵)、大原孫三郎(友)、穂積重遠、水野錬太郎、桜内幸雄、吉田茂 |
備考 | 代々庄屋 |
1875年4月7日 – 1966年2月22日)は山口県生まれ。元弁護士、政治家(貴族院議員)。法学博士。宮内省、日本銀行、日本郵船、東京海上火災、三菱銀行、日本勧業銀行の各顧問弁護士に就任。1931年に貴族院勅選議員。そして、内閣顧問や行政査察使を同時に兼任した。1945年、東久邇宮内閣で司法大臣就任。
1.伊藤博文公に面談
明治30年(1897)3月末のこと、私が大学2年の23歳のときである。当時伊藤公のお邸は高輪伊皿子にあり、そのとき公は57歳だった。私は勇を鼓して「この頃の大学生はのん気で、政治上の意見を述べる者もすくない。私の考えでは意志の強固な立派な人間は若い時にある目的、目標をちゃんとおいて、終始その目標に向かってまっしぐらに進んでいく必要があると思う。いかがでしょう?」と問う。
これに対し公は、「おれは、学問をする間は専一に学問をするのがええと思っている。誰がいっても理屈は同じだが、学は放心を求むるにあるということを中国人が言っているが、その通りだと思う。学問をするときは他のことを思ってはできない。維新当時でも若い書生たちは漢学流の教育を受けておったんだから、畢生、天下国家を論ずるものが多かった。それがこの頃はどうだ。国が開けて、英語を学ぶことになったところが、「お茶をもってこい」とか「それは猫である」とか、はなはだバカバカしい勉強をしなければならんようになった。自分はそれを我慢して勉強したから、いろいろの知識を得る機会を得たんだ。それだから、学校において勉強する間は、天下国家などそんな大きなことを思わないで、専心勉強するほうが、おれはええと思う」と。
私はせっかく意気込んで行って、意見具申したが、公のお話で冷水を頭から掛けられた気持ちだった。
2.山縣有朋公と伊藤公
あるとき新聞記者の私が政党内閣に反対している山縣公に質問した。「元老諸公がおられる間はいいが、百年の後は誰が後継首班を推すことになるのか」と。そしたら「遠い将来のことは別として、だんだん元老がいなくなればそれに代わるものを考える。それは総理大臣をしたことのある、いわゆる重臣、それから貴衆両院議長、それを入れるか入れないかは考慮中だが、とにかく重臣会議をもって元老会議に代えるつもりだ」と答えられた。
元来山縣公は保守派、伊藤公は進歩派、主義の上から来る政見上の相違があって二人は始終不和の間柄だった。けれども、お互いにもっとも良く相手の力量を認め合っておられた。つまらぬことでちょいちょいケンカをされたが、本当の国家重大事となると、互いに協力し、双方から意見をただし合われたものだ。その点においては近頃の政治家とよほど違うように思われる。
3.乃木大将の遺書を預かる
乃木大将も伊藤公、山縣公と同じ同郷の大先輩である。日露戦争のあと、乃木大将が欧州に行かれるというので、高輪の毛利邸で送別の園遊会をやった。その時若輩の私が送別の辞を述べさせられたことがある。しかし、乃木大将が亡くなられてから、弁護士の私がその遺言状を2,3日お預かりしたことがある。
私は頼まれて大将の遺言状を裁判所に提出、その認証をとったのだった。そのころ穂積重遠さんが学校を卒業したばかりで、外国へ留学する直前のことだった。父君から「息子は親族法を専門にやるのだから、その遺言状を見せてやって欲しい」と言ってきた。その頃私は京橋の白魚河岸で弁護士を始めたばかりで、そこに重遠さんがやってきたので見せてやったことがある。乃木大将没後の後始末は寺内正毅大将が中心になってやった。乃木大将の遺書の中には「自分の跡(相続人)は立てない、邸宅は東京市へ寄付する」とあった。