掲載時肩書 | 宮崎交通会長 |
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掲載期間 | 1965/08/25〜1965/09/16 |
出身地 | 宮崎県 |
生年月日 | 1893/05/08 |
掲載回数 | 23 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 住友総本店 |
配偶者 | 大学2年26歳結婚(地方銀重役娘) |
主な仕事 | 宮崎農工銀行、宮崎交通、観光バス、日向中央銀行、宮崎鉄道、宮崎ゴルフ->宮崎観光ホテル |
恩師・恩人 | 吉野作造教授、木津無庵先生 |
人脈 | 鈴木惣太郎(馬左也長男)、土井正治(同期入社)、川田順、加藤真吉 |
備考 | 父:事業家 |
1893年5月8日 – 1985年7月16日)は宮崎県生まれ。実業家。宮崎交通グループの創業者。宮崎を観光地として整備した立役者として「宮崎観光の父」と呼ばれる。日南海岸に現在宮崎の風物詩になっているフェニックスの植林を行い、こどもの国の開園、えびの高原の観光開発、橘公園の造園など「大地に絵を描く」という理念で大型の観光開発を行った。住友時代の同期には、田路舜哉(住友商事会長)、土井正治(住友化学会長)などがいた。また大学の同窓生である岸信介元首相と懇意であり、佐藤栄作元首相に全日空の社長就任を要請されるなど中央政界にも太いパイプを持った人物。
1.住友総本店の面接試験
重役の面接は東京販売店であったが、鈴木総領事は洋行中で中田常務ほか各重役列席の所に呼び出されて面接試験を受けた。一番近いところにおられた小倉支配人(のち総領事)が、私の願書を見ながら、君は特別の希望があるようだが言ってみたまえ、と切り出されたのですっかり面食らってしまった。仕方がないから、3年間置いていただきたい、というと一番正面の中田常務が、なに3年、そんな虫のいい話があるか、大学を卒業しても3年ぐらいでようやく一人前になるのじゃないか、と突っ込んでこられた。
そこで、いや全くお言葉の通りでございますが、私は住友さんは住友という組織を通じて国家のために尽くしておられると聞いてまいりました。私は田舎に帰りますが、地方を通じて国家のために働くつもりでございますから、失礼ながら住友さんと同じ目的でございます。それで住友さんならば国家のために一人の青年を3年間養成していただけるのではないかと思ってお願いに参りました。と言うと、列席の重役がみんなハハァと笑い出されて、マァ、ヨシヨシ、これで私の面接が終わった。若気の至りとはいえ随分わがままなことを億面なく言ったものであると思う。
2.宮崎に帰って3つの方針と夢
住友3年半の生活は私にとっては忘れられぬ、懐かしい、有難い3年半であった。宮崎に家業はあるが、この仕事は後回しにして、根本方針をしっかり決めようと思い、3つの方針を心に決めた。
(1)世の中には中央で働く者と、地方で働く者とがあるが、私はあくまで地方で働く方で終始しよう。
(2)上に立って旗を振る人と、下に居て旗の動きを見て実際の仕事をする人があるが、私は旗を振る方ではなく、旗を見て実際に仕事をする側の方の仕事をしよう。
(3)人のやっていること、やる人の多い仕事はしない。新しい仕事か行き詰って人のやらぬ仕事だけを引き受けてやってやろう。
以上、3つの方針を決めたが、私はさらに一つの新しい夢を付け加えた。それは何でもいい、どんな小さいことでもいい、私が手掛ける以上は何とかして日本一にまでいかなくとも何か日本の新しいモデルになるようなもの、新しい試みとして役立つようなものに造り上げたい、ということであった。そしてそこに私の生きがいを見出したいと思ったのである。
3.宮崎バスガイドの親切心
遊覧バスを始めるとき一番困ったのは、いなかの娘をどうして東京の娘さんと対等なバスガイドに仕立て上げるかということであった。私のこの難問に解決を与えてくれたのは、東京青バスの渡辺訓練課長の一語だった。若い女の子が乗ったら国から妹が来たと思いなさい。年とった女の人だったら国からおばさんが来たと考えなさい。この一語で私は分かったと思った。そうだ、身内の者に対する親切心、これならいなか娘の方が上かも知れない。これで行こうと決心して、爾来宮崎交通のバスガイドのサービスは営業サービスでなく、純真な娘さんのサービスが本体となっているのである。