掲載時肩書 | 東芝相談役 |
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掲載期間 | 2014/03/01〜2014/03/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1938/07/26 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 戸山高 |
入社 | 東芝 |
配偶者 | アウトドア派女性 |
主な仕事 | ラグビー、計測事業、米大学MBA,社長、リストラ2万人、日商会頭、消費税10%、TPP, |
恩師・恩人 | 西室泰三 |
人脈 | 土光敏夫、西垣浩司、町井徹郎、山口信夫、三村明夫、 |
備考 | 父:孫子研究 |
1938年7月26日 – )は、日本の経営者・財界人。東芝名誉顧問、日本商工会議所名誉会頭、NPO法人日本防災士機構評議員などを務めている。父は元陸軍大佐で孫子研究家の岡村誠之。兄は元警視庁副総監の岡村健。岡村氏は東芝出身社長とし佐波正一氏に次いで2人目だが、プロパーではない社長経験者の石坂泰三、土光敏夫氏を入れれば、4人目となる。同一企業から4人も「履歴書」に登場しているのは、三井物産、トヨタ、野村證券、新日鉄、中部電力の計6社である。彼(岡村氏)は大学時代にラグビーを始め、東芝でもプレーし、その精神を経営にも生かした。
1.計測事業部配属でデジタル化に取り組む
1962年4月、川崎市の体育館で入社式があった。当時は「超売り手市場」と言われ、総数600人の大量入社だった。東芝で最初に配属されたのは計測事業部だった。計測器とは鉄鋼、石油、石油化学等のプラントを最適に制御するため、圧力や流量、温度、化学成分を正確に測定してフィードバックするシステムである。目立たないが、プラントの安全と効率を受け持つ重要なシステムだ。事業部は発足3年足らずで、出来立てほやほやだった。
計測機器業界には既に「御三家」と呼ばれた専業メーカーがあった。そこで米ゼネラル・エレクトリック(GE)の技術を導入し、遅れを取り戻すことになった。その突破口はあった。東芝は半導体部門が当時最先端の12ビットマイクロプロセッサ―を自動車用に開発しており、それを計測機器に搭載して新市場を切り開く、ということになった。狙いは的中。開発が進むと「本当に行ける」という手ごたえも強まり、デジタル化に集中することになった。
2.苦渋のリストラ
社長就任直後にITバブルの崩壊があり、2002年3月期に1000億円以上の赤字計上となる。打開策のための「01アクションプラン」を発表したが、それには従業員の10%(2万人)を削減し、生産拠点の統廃合や資産の売却を進めるものであった。東芝には家電や半導体など多数の事業部門があり、これらを「選択と集中」により事業を効率化する必要があり事業の統廃合や他社(パナソニックなど)との事業統合を大胆に進めた。この9月、毎週日曜日の放送されていた「東芝日曜劇場」の提供から一旦降りた。多くの批判を頂戴した。
東芝は5年で身軽になった。川崎市にあった主力工場や遊休不動産を閉鎖・売却して総資産が20%ほど小さくなり、有利子負債も4割近く減った。
3.企業統治に先陣をきる
改正商法の施行が2003年4月。東芝はほぼ先陣を切る形で委員会等設置会社に移行した。平たく言えば、法律の明確な裏付けのもとで経営の執行と分離を一段と徹底したということだ。業務の執行に対する監督機能を強め、経営にスピード感を持たせたい。それが私の考えだった。
委員会等設置会社への移行に合わせ、社長の報酬は「報酬委員会」で決めることにした。後継候補も「指名委員会」で選定することにした。後継者選びで言えば、社長の私に残ったのは推薦権だけになった。会社は社長の持ち物ではない。社長に権限が集中しすぎると透明性を欠き、組織が硬直的になる大企業病がはびこる。そこにメスを入れようとしたのがガバナンス(企業統治)改革だ。
それは前任の西室泰三社長時代に始まった取り組みでもあった。1990年代末、商法改正に備えて執行役員制度を採用し、取締役の数を大幅に減らして取締役会の活性化を図った。社外取締役も増員した。
4.東芝の誇るもの
東芝には数多くの世界初、日本初の商品がある。例えば、白熱電球や電気冷蔵庫、自動式電気釜は日本初、ビデオの記録時間を飛躍的に高めたヘリカルスキャン方式VTRなどは世界初だ。それらはどんな人々が創り出したのか。そもそも創業者はどんな思いで東芝を創業したか、それを知る必要があると思った。
東芝の創業者は田中久重と藤岡市助である。二人がそれぞれつくった会社が1939年に合併し、東京芝浦電気となった。45年ほど前にNHKで「からくり儀右衛門」というドラマが放送された。あれが田中久重である。久重は若い頃から発明家として名を上げ、20代でからくり人形の職人・興行師として大阪、京都、江戸などを行脚する。その後、大阪に移り住み「いつまでも消えない灯り」と商人に人気を博した「無尽灯り」を発明。さらに47歳で西洋天文暦学の総本山、京都の土御門家の門をたたく。そして完成させたのがからくり時計の最高傑作「万年時計(万年自鳴鐘)」だった。
黒船が現れ、開国への圧力が高まると、佐賀藩に招かれて蒸気機関や大砲、蒸気船の開発に取り組んだ。政府の仕事も請け負った。東芝を創業したのは75歳の時。1875年7月、現在の東京・銀座8丁目に工場をつくり、「万般の機械考案の依頼に応ず」と看板を掲げた。
「人を喜ばせたい」「世の中のためになるものを作りたい」との思いで次々と新しいものに挑んだその人生には総合電機メーカー、東芝の原点があった。