掲載時肩書 | 全国地域婦人団体連絡協議会長 |
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掲載期間 | 1975/11/12〜1975/12/06 |
出身地 | 三重県 |
生年月日 | 1899/01/05 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | お茶の水女子大学 |
学歴その他 | 府立2女 |
入社 | 国民新聞 |
配偶者 | 離婚 |
主な仕事 | 主婦の友社、国民婦人会、婦人参政権 、母子保護、風俗営業 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 門馬千代、竹田キヨ、市川房枝(6歳上) |
備考 | 父友下村海南 |
明治32年1月5日(1899-1977)、三重県生まれ。
日本のフェミニスト・政治家である。婦人参政権獲得期成同盟会の創設に加わり、全国地域婦人団体連絡協議会の初代理事長となったほか、参議院議員を務めた。
参議院議員としては母子福祉整備のための活動を継続し、1964年の母子福祉法制定などに関わっている。この他、議員としては市川房枝や林塩らと共に第二院クラブを結成したり、食品添加物であるチクロの規制をめぐる問題など消費者の権利保護のための政治活動も行ったりした。
1.東京連合婦人会
大正12年(1923)11月1日、東京連合婦人会は帝国ホテルで発会式をあげましたが、社会、授産、労働、教育、政治の5部をもつ文字通りの東都婦人の大同団結が誕生いたしました。社会部はミルク配りに働いた社会事業団体が中心で、罹災調査を日本女子大生の応援でいたしました。布団が欲しいという声に従って、全国からそれを集めたり、授産部では東京市の救援事業の中から布団づくりの仕事を貰って神宮外苑の競技場で100枚の布団の綿入れを行った壮観など、まだ眼底に残っています。
街頭募金の収益で罹災校に寄付をするかと思うと、最後に生まれた政治部が中心になって、婦人参政権獲得の婦選獲得同盟が生まれるのであります。
2.婦人参政権獲得同盟の誕生と解散
婦人参政権の新団体、婦人参政権獲得期成同盟会は、会長格の総務理事に久布白落実、会務理事に市川房枝、会計理事に府立第3高女の家事の先生でアメリカ帰りの中沢美代の方々を選び、私も中央委員に名を連ね、宣伝部の仕事に就くことになりました。
大正13年(1924)に結成された婦選獲得同盟は、昭和15年(1940)9月に解散いたしました。この解散は決して命ぜられたわけではなく、自爆したのですが、市川さんと私は16年間相携えて働いてまいりました。そこで人よんで市川・金子時代と申されます。私の結婚時代の姓は金子でありました。
3.繰り上げの参議員に
昭和20年(1945)8月15日、暑い暑い日でモンペ姿に履いているズック靴のあとが、溶けかかっているアスファルトの上につくほどでした。神田美土代町のYMCAの一室で、動員援護会の会議があり、そこで玉音放送のラジオをたまわり、午後私は藻塩会という若いグループの連中と、皇居前広場に出かけました。二重橋に近い最前列では、砂の上に正座している人々の涙が砂を濡らしているのも目に入りました。
翌21年ころは、「こんな1票より、サツマイモ1俵の方が良い」などといった女の人たちも、その積み重ねで自分たちの代表が出せることを悟って、地婦連会長の私を参議院に送ろうという総意が盛り上がり、37年6月私は初めて全国区で立候補いたしました。もっとも次点で落選いたしましたが、当選議員に病没される方が出まして、9月繰り上げ当選という稀な幸せに恵まれました。
4.第二院クラブ設立
参議院の議員生活は9年間続きました。約束通り無所属で、市川房枝、林塩の二氏と第二院クラブを作り、例の緑風会が同志会と改められるのと組んで、交渉団体を構成していたため、最小の会派ながら案外早く登壇の機会を得たのでした。
「国民年金法及び児童扶養手当の法律案」についての私の質疑でしたが、与えられた時間はわずか10分。これを私は池田総理に4分、蔵相、厚相、労相の三相に各2分を割り当てました。
5.売春防止法に貢献
「売春をなくす運動」、これもまた地婦連お家芸の一つです。従来の公娼制度は、21年GHQによって廃止されましたが、その後にできたいわゆる赤線、青線地帯はますます拡大され、街娼がいたるところにはびこり出したので、各県でも条例を作って取り締まっていました。
沖縄に現地調査に行きますと、沖縄の実相を知れば知るほど、底知れぬ深刻さで、なかなか仕事がはかどりませんでした。日本本土では、トルコ風呂と並んで、モーテルの激増がまた新しい売春の温床となりましたので、風俗営業取締法の改正運動を中心に、これが密室構造の改善にある程度成功いたしました。