掲載時肩書 | 朝日麦酒社長 |
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掲載期間 | 1957/04/24〜1957/05/12 |
出身地 | 大阪府船場 |
生年月日 | 1893/04/24 |
掲載回数 | 19 回 |
執筆時年齢 | 58 歳 |
最終学歴 | 高等学校 |
学歴その他 | 北野中 |
入社 | ガラス瓶製造 (父) |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 三つ矢サイダー、欧米視察、大日本麦酒、朝日麦酒、バーリャスジュース、大阪ロータリー、朝日コンサート |
恩師・恩人 | 根津嘉一郎根津嘉一郎、リチャード・メイ、宮島清次郎 |
人脈 | 小西儀助・林龍太郎(後見人)、和田豊治、小林一三、伊藤忠兵衛、宮島清次郎、近衛秀麿、浜田・河井・柳(民芸運動家) |
備考 | フランクリン 、祖母の教育に感謝 |
1893年(明治26年)4月24日 – 1966年(昭和41年)2月4日)は大阪生まれ、実業家。1949年(昭和24年)、朝日麦酒(現・アサヒグループホールディングス)社長に就任。サントリーにも関与。その後、新大阪ホテル、大阪ロイヤルホテルを設立。民芸運動を支援、1955年(昭和30年)、東京交響楽団理事長に就任。関西圏、特に大阪の経済・文化基盤の発展に寄与された人である。
1.ビールのホップの国産化
昭和12年(1937)、国産のホップは非常にわずかなものに過ぎなかった。大日本麦酒が札幌時代、明治8年(1875)から北海道で栽培していたのと、また信州で明治40年(1907)からホップの試作を始め、それがどうやら完成に近づいていたのと、それだけが全部だった。両方合わせても国内需要の1割を賄うのがせいぜいであったろう。戦争とはいえ、急にホップの輸入禁止を食ったのではビールの生産は止まってしまうのである。私どもは時の蔵相石渡荘太郎、商工相吉野信次両氏にホップの輸入を考慮してくれるようにお願いした。
私どもの腹では、3年もすれば国産で大日本麦酒の自給ができる。5年後には日本で必要なホップを全部、国内で賄えるようにする考えであった。この要請が認められ、やっと前年度1割増の528万トン輸入の許可をもらうことができた。事実、5年後の昭和17年にはこの約束は実現したのである。
2.ロータリークラブ内ニックネームの傑作
大正12年(1923)、私は欧米旅行から帰って間もなく、当時大阪に誕生したばかりのロータリークラブへ入会を許可された。会員同士はロータリーネームで呼び合うのだが、いまだに傑作と思うのはそれぞれのニックネームである。例えば図書館長は“ツンドク”、伊藤忠兵衛君は梅川忠兵衛の中の“金より大事な忠兵衛さん”をもじって“兼頼”といったようなものである。とにかく私はこのクラブの人々によって人生観も広くなり、人間勉強も大いにさせてもらった。
3.20世紀を代表するバイオリニスト・ハイフェッツの言葉
大正12年にハイフェッツが日本に来た時、彼は23歳と何か月だった。そのとき私は欧米の音楽や絵画など芸術の高さを称賛すると、彼は私にこう話してくれた。
「山本さん、あなた方は日本にいて何も苦労がない。島国で一系の皇室をいただき、同じ民族で、同じ言葉を使い、ともに喜び、ともに悲しむことができる。実に幸福だ。私の生まれたエストニアは、ヨーロッパ戦争のたびに、ドイツ領になったりロシア領になったり、国際連盟の管理になったり、6たび国籍が変わった。われわれの国では財産というものが持てない。結局、身につけたものよりのほかに、財産はないのだ。学問とか芸術とか、身についたもの以外は財産ではない。あなた方から見れば音楽で明け暮れる我々の生活を楽しいように思われるかもしれないが、華やかな我々の生活の裏は実に涙なのだ」と。
4.恩師・根津嘉一郎翁と宮島清次郎氏
根津さんは昔の漢籍と英雄豪傑の小説で頭をつくった人で、人生観も特異なものを持っていた。世間の人はいかにも冷酷な人のようにいうが、私は非常に可愛がられて良い思い出だけが残っている。宮島さんは無私の人で、自分が是と信じることはやるが、ほかの物欲や名利では絶対に動かない人である。根津さんの懇望で大正7年((1919)に39歳で日清紡の社長となり、終始、根津さんの誠実な協力者として、何の求めるところなく尽くされた。物事の是非を明らかにして率直に意見を述べられ、判断に狂いはなかった。
根津さんが南米に行かれる直前に「山本のことを頼む」と言われたそうで、そういうことから宮島さんは私のことを心にかけ、愛情を持って40年間、会社のこと、私のことを心配してくれた。