山本卓眞 やまもと たくま

電機

掲載時肩書富士通名誉会長
掲載期間1999/03/01〜1999/03/31
出身地熊本県
生年月日1925/09/11
掲載回数30 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他陸軍航空士官学校
入社富士通
配偶者社内結婚(果樹園娘)
主な仕事online system完成、(NEC:沖:富士= 3:2:1)、日興証券、第一銀行OS、(コンピュータ、通信、半導体)事業、日本ユネスコ協会、
恩師・恩人小林大祐、池田敏雄
人脈石川六郎・芥川也寸志(中学)山口信夫、三田勝成、岡田完二郎、関沢義
備考8月15日に特攻 出撃予定
論評

1925年9月11日 – 2012年1月17日)は熊本生まれ。陸軍軍人、計算機工学者、経営者。米IBMとの著作権紛争をはじめ、半導体やスーパーコンピュータをめぐる日米貿易摩擦でも一歩も引かない気骨を見せたことから、「闘う経営者」と呼ばれた。実兄の卓美が八紘第八隊(勤皇隊)隊長としてフィリピンで戦死しており、戦争遺族の活動にも積極的に参加した。日本会議の副会長や「佐藤正久を支える会」会長なども務めた。

1.終戦8月15日の私
1945年3月、私は陸軍士官学校を卒業、見習士官となった。そしてすぐに満州に赴任した。ソ連軍の侵攻を聞き、急遽「若楠特攻隊」が編成され、8月14日夕方に「隼」への爆弾装備を終え、出撃の指示を待っていた。どんな運命のいたずらか、そのまさに翌15日、日本はポツダム宣言を受諾、全面降伏した。
 動揺する若き特攻隊員を前に、島田安也部隊長は毅然とした態度で最後の訓示をした。「諸君にはこれまで、国のために死ね、と教えてきた。しかし、今をもって命令を変える。死んではいかん。何が何でも生きて帰り、祖国の再建に尽くせ。今までは、食うもの、着るもの、全てを国が支給した。これからは自分の力で食っていかねばならない。それを思うと哀れで、涙が出る」。私は茫然とした思いで、この訓話を聞いた。
 その翌日、私たち190人の陸士新卒将校は、ついに一度も戦火を交えることのないまま、汽車で日本に送り返された。全員を見送った島田中佐は、その直後に奉天航空廠に攻め込んだソ連軍によってシベリアに連れ去られた。

2.天才・池田敏雄氏を惜しむ
私の人生にいろいろな意味で最も影響を与えた人に、日本のコンピュータ開発史を語るに欠かせない池田敏雄氏がいる。池田氏は私より2歳上と年齢も近く、電話機のダイヤル研究に取り組んでいた。測定器を自分で作っていて、「電気のことを教えて欲しい」とたびたびやって来て、一緒に仕事をすることになった。
 富士通のコンピュータ事業の成功は池田氏という天才の存在なしには語れない。富士通は池田氏の天才的な頭脳に社運を賭けてコンピュータ事業に挑み、IBMを追撃した。池田氏は仕事に没入すると何も見えなくなり、何日も家で考え込んで出社しないなど奇行も多かったが、そのたびに富士通のコンピュータ開発は一歩一歩前進した。池田氏の天才ぶりは、アイデァが浮かぶだけではなく、これを信じ切り、難局があっても全くひるまずに全精力を傾け、さらに周りの人間の力も吸い込んで最後まで突破してしまう。
 池田氏はそういう人物だったが、コンピュータ開発に身を擦り減らし、51歳で急死したが、20代のころから別格の雰囲気が漂っていた。

3.コンピュータ事業のスタート
小林大祐氏は「大ぶろしきの小林」と呼ばれるほど大きな仕事が好きだったが、1951年(昭和26)に開発課長に就任してから、その本領を発揮する。小林氏は京大工学部を卒業して富士通信機製造(現富士通)に第一期生として入社した。戦時中に陸軍研究所の要請で、皇居を中心とした東京中心部を敵機の爆撃から守る防御システム作りを手伝った。レーダーで捉え高射砲で迎撃する仕組みだが、歯車の塊のような機械式で計算が遅い。レーダーで得たデータを計算している間に爆撃機はあっという間に逃げてしまう。この時、コンピュータの重要性を痛感したという。
 1952年(昭和27)の夏、小林氏は「東京証券取引所が株式精算システムの導入を計画している」と聞きつけた。東証が検討していたのは、一定のルールで伝票に開けた穴の位置を高速で読み取る「パンチカードシステム(PCS)」と呼ぶ装置だった。これに対し小林氏は、交換機で使っているリレー素子を使えば専用のコンピュータが開発できる、と見ていた。成功すれば新規事業に育つと期待して、入札参加を申し込んだ。丁度この時、高純一社長と技術担当の尾見左右取締役はドイツ出張中だった。通信手段も貧弱で、いちいち出張先に指示など仰げない。小林氏は独断でコンピュータ事業への参入を決めたのだった。
 小林氏から呼ばれ、いきなり「コンピュータを作れ」と言われてびっくりした。特別チームを編成すると言われたが、集められたのは、開発課の池田敏雄氏とリレー素子のなじみの深い交換機課から私と山口詔規氏の合わせて3人だけなので、もっと驚いた。池田氏29歳、私が27歳、山口氏が26歳という若手3人の特別チームの発足だった。これから悪戦苦闘しながらこの開発を成功させることで、悲願のコンピュータ事業に参入することができた。

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