山口華楊 やまぐち かよう

芸術

掲載時肩書画家
掲載期間1983/07/17〜1983/08/13
出身地京都府
生年月日1899/10/03
掲載回数28 回
執筆時年齢84 歳
最終学歴
京都市立芸術大学
学歴その他京都絵專
入社研究科
配偶者見合い材木娘
主な仕事五雲塾12歳、動物画家、独立、九人会、京都絵画講師、五雲塾を継ぐ、教授、黒豹・仔馬で解脱、仏画、
恩師・恩人西村五雲、竹内栖鳳
人脈関精拙師、村上華岳、小野竹喬、福田平八郎(先1)、奥村厚一、堂本印象
備考父:友禅彩色
論評

1899年10月3日 – 1984年3月16日)は京都府生まれ。日本画家。写生中心の画風で、動物画を得意とした。画壇に貢献。色鮮やかな背景に描く花鳥画は今でも人の目を引く。

1.師:西村五雲先生の指導
先生は京都の人で染色業の家の出である。岸派の後継者である岸竹堂の門に入り、竹堂の亡き後は竹内栖鳳に師事して絵を学んだ。小品の花鳥画、ことに動物を題材にした絵で知られ、帝国芸術院会員になられた人であり、京都画壇史に欠かせない存在の人であった。
 私が入門した五雲塾の指導では、先生は、ただ細かく見るのではなくよく見ることが大切である。感動して見ることができるのはほんの一瞬でしかない。何枚も何枚も写生をしても、感動できるのはわずかな瞬間である。それを描かなければいけない・・と常々語った。風を受けてしなう柳の枝はいつも同じようだが、そよぎに揺れる繰り返しの動きの中に、ものの本質がよくあらわれる一瞬があるというのである。

2.竹内栖鳳先生の指導法
塾の師である五雲先生の勧めで、栖鳳先生の研究会である「竹杖会」にも参加することになった。この会は毎月1回、栖鳳一門の合評会が開かれ70,80人が参加した。この研究会には出席者一人一人が近作を持って参じ、お互いに批評し合うのである。栖鳳先生はそのやり取りを一通り聞いてから、最後に意見を述べられる。その言い方は決して堅苦しくなく、優しいことを言って含蓄に富み、ちゃんと急所を突いていた。
 仮に写実一点張りの絵が出たとする。先生の批評は大体こうである。「人間は滋養のあるものだけを食べていたら、確かに生命を全うすることはできる。けどやっぱりたまには味わいのあるものを食べてみたいし、酒を飲みたいと思うのと違うかなぁ」と。
 理想主義的な絵で、主義が勝っていれば「この絵はあれこれ考えて考えて、しまいには眠たくなって、眠ってしもうたような絵やなぁ」という調子である。この色が悪いとかここがおかしいとは言わないのだった。

3.福田平八郎さんの趣味
福田さんは絵専では1年上だが、歳は8つばかり離れている。昭和5年(1930)ごろ、福田先生はこのころ、釣りに熱中していた。それが水にまつわる名作を生んだ背景でもあるのだけれど、笑い話も絶えない。ある晩、福田さんやら堂本印象さんやら、10人ばかりで食事をしたことがあった。皆でお酒をいただき、ご飯を食べていると、畳の上を変な虫が這いだして大騒ぎになった。よく見ると、これがウジ虫。
 翌朝早く釣りに出る予定の福田さんが、夕食会に出席する前に釣り餌を求めてきたものだった。明日は釣り、と決まると前の晩からもうソワソワして、心ここにあらずといった風になるのが福田さんだった。よほど釣りに魅せられていたのだろう。

4.動物画家の異名を頂戴する
私はこの異名を頂戴されるように、たくさんの動物の絵を描いてきたし、かれらと付き合ってきた。大体は小鳥が多かったが、キジや白サギ、ミミズク、鳶(トビ)なども飼ったことがある。猿やウサギ、犬がいたこともある。小鳥はあまり手間がかからないけれど、白サギや鳶は生きたドジョウや肉など生餌を好むから、扱いが大変であった。戦争が激しくなると餌の入手に窮して、鳥類はみな放してしまった。
 時間があれば庭に出て、小屋の中の生き物たちを観察し、その動きを写生した。すぐに本画にするつもりはなくても、日々の勉強として写生するのを常とした。この写生が、何十年か後になって、本画に生きてきた経験は何度もある。しかし、動物画家とは言われるが、私は動物と、それに劣らないくらいの数の樹木、花を描いてきた。それは西村五雲塾を選んだ時からの私の運命だったと思う。

山口 華楊(やまぐち かよう、1899年10月3日 - 1984年3月16日)は、日本画家京都府京都市中京区生まれ。 西村五雲に師事。帝展入選8回、特選2回[1]。 写生中心の画風で、動物画を得意とした。本名は米次郎。画壇に貢献。色鮮やかな背景に描く花鳥画は今でも人の目を引く。

  1. ^ 山口華楊『出身県別 現代人物事典 西日本版』p460 サン・データ・システム 1980年
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