掲載時肩書 | ジャズピアニスト |
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掲載期間 | 2011/06/01〜2011/06/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1942/02/26 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 国立音楽大学 |
学歴その他 | 麻布 |
入社 | アルバイト |
配偶者 | 音大後輩 |
主な仕事 | ジャズ理論、フリージャズ、トリオ結成、映画、 和太鼓、クラシックをジャズに、NYトリオ、 |
恩師・恩人 | 渡辺貞夫 |
人脈 | 麻布(F堺、小沢昭一)、J・川口、タモリ、赤塚不二夫、立松和平、筒井康隆、茂木大輔、坂本龍一 |
備考 | 母ピアニスト(司法大臣・小山松吉末娘) |
1942年2月26日 – )は東京生まれ。ジャズピアニスト、作曲家、エッセイスト、作家である。ひじで鍵盤を鳴らす独自の奏法を交えながら演奏する。他分野への進出、コラボレーションにも積極的であり、『ジャズ大名』『ファザーファッカー』『カンゾー先生』などの映画音楽を手がけている。またクラシックピアニスト、オーケストラ、和楽器楽隊とのフリーな競演や山下洋輔パンジャスイングオーケストラを組織するなどもしている。独自の視点を生かした軽妙なエッセイや小説も執筆している。読むと規格外の芸術家でした。
1.前衛的ジャズ演奏(即興ソロ)
1965年に「ジャズギャラリー8」という本格的なライブ場所で、富樫雅彦(ドラムス)が自分のカルテットで演奏を始めた。武田和命(テナーサックス)、瀧本国郎(ベース)、山下洋輔というメンバーだった。
リーダーの富樫の考えで、みな好きなだけアドリブ・ソロをとることができた。普通何コーラスと決まっているものを無制限に開放したのだ。1曲が長大な時間になることが多かった。皆、自分の中にあるものをすべて開放するまでアドリブを続けた。そういう意味でこのバンドを「日本で最初のフリージャズ・バンド」という。
2.ナベサダ(渡辺貞夫)さんとの出会い
1965年秋、渡辺貞夫が米国から帰国し、すぐに「ジャズギャラリー8」に来てくれた。セカンドセッションが始まる寸前に彼が現れて、ステージの一角で楽器ケースを開けて準備を始めた。ジーパンにスニーカーだったが、これが驚きだった。当時バンドマンはどんな時でもスーツというのが常識だったからだ。
佐藤允彦とちょっと打ち合わせをしたあと「ステラ・バイ・スターライト」の最初の2音が響き渡った。並んで座っていた武田和命ともどものけ反った。そのまま後ろに吹き飛ばされて倒された感じの衝撃だった。スニーカー姿同様、無造作で自然体に音が次々に繰り出され、力強い魅力でその場を圧倒した。その音々は「日本人でもこんなになれるのだ!」という事実をはっきりと伝えてくれた。そして彼は、私を仲間として誘ってくれた。
3.バリケード内の演奏
1969年当時「ドキュメンタリー青春」というテレビ番組があって田原総一朗氏がディレクターだった。浅川マキや三上寛などその頃の言葉でいう「アングラ」的な存在感を放つ人たちがよく取り上げられていたが、この番組に出ることになった。田原氏には「ピアノを弾きながら死にたいと言っている奴がいる」という話が届いていたらしい。それなら死に場所をつくってやると考えた田原氏は、早稲田大学の学生運動のバリケードの中で演奏するという舞台をつくってくれた。この時はヘルメット姿の何十人の学生たちが大隈講堂に入って勝手にピアノを担ぎ出してきた。今なら「逮捕」になりかねない出来事が当然のように起きた時代だった。
当時盛んだった学生運動にはいくつものセクトがあった。敵対するセクトが占拠する教室にピアノを持ち込んで演奏するとどうなるか。現場は大混乱になり、火炎瓶は飛び、ゲバ棒はうなるだろうと覚悟した。しかし、案に相違して、演奏が始まると、皆、音楽を聴いてしまった。ヘルメットを脱いでいたのもいる。
4.山下トリオの解散コンサート
1969年、中村誠一(テナーサックス)、森山威男(ドラム)、杉本敏昭(ベース)でトリオを結成したが、1983年暮れに最後のコンサートツアーをやった。15年続いたトリオは武田和命(テナーサックス)、林栄一(アルトサックス)、小山彰太(ドラムス)のメンバーだった。名古屋の「ラブリー」ではソロの途中で二人揃って吹きながら外に出ていき、通りを挟んだ向かいの中華料理に乱入して「支那の夜」を吹きまくってまた戻ってきた。中華料理店のお客さんたちには大変な迷惑だっただろうが、まだまだそういうことが面白いと我々は感じることができたのだ。