掲載時肩書 | 歌舞伎俳優・芸術院会員 |
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掲載期間 | 1979/03/01〜1979/03/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1915/08/31 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 64 歳 |
最終学歴 | 専門学校 |
学歴その他 | 慶應商高 |
入社 | 5歳稽古 |
配偶者 | 帽子業娘20歳 |
主な仕事 | 6代目に養子、雪の中で裸足稽古、父:俳優 学校創立、映画、米国で演技指導 |
恩師・恩人 | 養父(六代目) |
人脈 | 戸板康二(小学)、谷村裕(暁星)、団十郎、幸四郎、尾上松緑(父の弟子)、F・パワーズ、伊藤大輔、 |
備考 | 徳大寺伸 実兄、父:多趣味狩猟、絵 |
1915年(大正4年)8月31日 – 1995年(平成7年)3月24日)は東京生まれ。歌舞伎役者。屋号は音羽屋。幼時から六代目菊五郎の薫陶を受け、その芸系を受継いだ。1948年(昭和23年)に六代目尾上梅幸未亡人のたっての希望で七代目尾上梅幸を襲名。七代目尾上菊五郎(妻:富司純子)は長男。他に長女と次男がおり、次男も二代目尾上栄之助として歌舞伎の舞台を踏んだが、1979年(昭和54年)2月の舞台を最後に廃業している。俳優の徳大寺伸は実兄。孫は女優の寺島しのぶ、五代目尾上菊之助。
1.切腹の父実演
4歳のあるとき風呂場で切腹のマネをしていた。するとちょうどそこへ父が入ってきた。父は私の切腹のマネを見て、4歳の子供ということも見境なく、「おい誠三、切腹はこうするんだ」といって素っ裸であぐらをかき、手ぬぐいを丸めて腹に当てて切腹のしぐさをしてくれた。それを見た私は子供心にも強烈な迫力を感じたものである。そのあと「腹を切ると痛い、痛いから体が硬くなる。だから足の親指がこうなる」といって親指を内側へ曲げて見せてくれたので、私は思わず緊張したことを覚えている。幼少期に強い印象を受けたことはいつまでも記憶に残るもので、後になって「忠臣蔵四段目」判官の切腹の時にはこの教えを守っている。
2.雪の庭でしごき稽古
10歳のとき、雪の中を訪問する役を与えられた。座敷で私が寒そうなしぐさで歩き始めると、途端に父の声。「おっといけねぇ、もいっぺんやってみな」。私はまた部屋隅から歩き出す。「ダメだ」の繰り返しで10回やる。「バカヤロ、そりゃ畳の上の歩き方だ。庭に降りて裸足で歩け」と怒鳴られた。
十歩も歩くと寒いというより痛みを感じた。二分経つとすっかり足の感覚はなくなった。5分、10分、15分、どうにもなれという気持ちで演じるとやっと許可が出た。「おお、できた。その意気でやるんだ。今の気持ちを忘れちゃいけねえぜ」。ギュッと抱きしめたくれたその時の父の温かい感触はいつまでも忘れない。
3.役づくりのメンタルテスト
父は舞台でよくメンタルテストをやる。例えば若い女形がウナギ屋の女中で出てくる時、一緒に出ていた父が即興に「おいねぇちゃん、お前の生まれはどこだい」と台本にないセリフを言う。そこで「江戸です」と答えると「江戸はどこだい」「隣は?」「ご酒造所は」とか次々と問いただす。これには相手も困り、参ってしまう。
幕が閉まると父のお説教が始まる。昔の子供はお祭りが楽しみだから、町内のどこに「ご酒造所」があるぐらいは知っておかなければいけない。だから役をもらったらたとえ小娘でも役づくりは自分で考えろという。
それを心得て舞台に出れば、「お前の生まれはどこだい」とアドリブで聞かれても直ぐ返事ができる。だからたとえ通行人のような端役を与えられても自分の人物を作るべきで、そうすれば通行人にも魂が入るというわけだ。そのためには、ふだん表を歩いていてもボヤッとしていないで、人の着物の柄、歩き方、奇妙な格好をした人、その他森羅万象、舞台で応用できるものがいくらでもあるから、それをよく覚えておけと。
4.六代目菊五郎の多趣味
父は多趣味多芸の持ち主だ。
狩猟は第一回全日本狩猟大会のチャンピオンであり、競走馬を持ち、大正時代に2万円のキャデラックを乗り回していた。そのほか相撲、野球もやれば写真は暗室を使って自分で現像をし、料理の免状を持ち、釣りも名人級で、めったに使いもしないのに舶来エンジン付きのカツオ船を持っていた。絵は横山大観先生の直門なら、百人一首、マージャンもセミプロだったが、ゴルフはダメでした。
しかし、食通でもあり、外では高級料理を食べてはいたものの、家では意外に質素だった。人が聞くとウソのようだが、ヒジキと油揚げ、それと生揚げを焼いて大根おろしと醤油で食べるのが好きだった。そうかと思うと、ソバをご飯の上にのせたり、塩せんべいを細かく砕いて飯の上へのせ、お茶をかけて食べるのが好きで、母や私もよくつき合わされた。だから私など肉が食べたいと思ってもなかなか食べられなかった。
尾上 梅幸(おのえ ばいこう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は音羽屋。定紋は重ね扇に抱き柏、替紋は四ツ輪。
「梅幸」は初代尾上菊五郎の俳名に由来する。この初代と、二代目、五代目の菊五郎は、それぞれ「梅幸」を俳名としては使ったが、実際にこれを名跡として襲名することはなかった。