掲載時肩書 | KDDI相談役 |
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掲載期間 | 2020/10/01〜2020/10/31 |
出身地 | 宮城県 |
生年月日 | 1948/02/03 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 東北大学 |
学歴その他 | |
入社 | 電電公社 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 沖縄離島、さくら2、DDI、携帯電話、モトローラ、KDDI、着うた、定額制 |
恩師・恩人 | 千本倖生、稲盛和夫 |
人脈 | 森山信吾、真藤総裁、飯田セコム、盛田ソニー、牛尾会長、奥田・張トヨタ |
備考 | 経営理念を血肉まで |
氏の「履歴書」登場は、産業としての「情報・通信」分野では、鈴木幸一(IIJ会長)に続いて、2番目である。官営企業であったガリバー企業の電電公社に就職しながら、これに対抗できる競争会社の立ち上げ機に退職・参加し、存続・成長させるまでの無線技術の進歩・変遷を語ってくれた。
この中で印象に残った文言を抽出しました。
1.自分を生かせるところ
無線は今でこそ携帯電話やWi-Fiとして誰もが毎日使うメジャーな通信技術になったが、1971年当時の無線は、裏方的な地味な存在だった。電話回線を施工・維持・補修する「線路」や、電話サービスの根幹である「交換」が技術部門の主流であり、組織も大きかった。私の同期もそれぞれ50人以上が線路と交換に進み、無線は私を含め9人だった。
「これからは携帯の時代」という先見の明があったからではない。巨大な組織の歯車になるより、小世帯の方が自分の力を伸び伸びと発揮できると考えたからだ。若い時期の任地で、奄美大島や徳之島、沖永良部島を見て回り、沖縄本島と鹿児島を結ぶマイクロ無線の設備をこうした島々に建設中だった。また、衛星通信担当となり、本土と小笠原諸島が短波無線で繋がれていたが、通信品質が悪いため、通信速度が0.5秒遅れるものの、非常時を想定して衛星通信「さくら2」を全国5か所に整備する経験が後の人生に大きくプラスになった。
2.ソフトウェア力の発揮には
20世紀に「わが世の春」を謳歌した日本企業は、21世紀に入ると目に見えて失速した。その大きな原因は、ソフトウェアの軽視にあるのではないか。日本の経営者は機械工学や素材技術などの「ものづくり」が大好きだが、反面、ソフトウェアやアルゴリズムに対する理解は弱い。かって経団連でこの問題を採り上げようとしたが、周囲の賛同が得られない。そこで知恵を絞ってソフトウェアなどを「見えないモノづくり」と名付けると、トヨタの内山田竹志会長に「面白い」と評価していただいた。
ソフトウェア力の発揮には「組織全体のスキル転換を進めないと会社は発展しない」と思う。今、デジタル・トランスフォーメーション(DX)という言葉が流行しているが、標準システムに合わせて、仕事の流れを見直すくらいの覚悟で取り組まないと、大きな飛躍にはつながらないだろう。
3.企業の生き残り成否
稲盛和夫さんの口癖は「フィロソフィの必要性を一番理解していないのが君らのようなインテリだ。中身は常識的なことを言っており、表面だけ読むと『そんなのは当たり前だ』となるが、実際にできている人はいない」。字面で分かったつもりになるのではなく、フィロソフィの中身を自分の血肉とすることで、迷った時や先行きが混とんとした時に、何をすべきか、経営や人生の進路が見えてくることがある。当社でも、部単位での定期的な勉強会や管理職研修に取り入れ、全社員がフィロソフィに向き合う機会を設けている。稲盛さんは「フィロソフィは常に学び直さないといけない」とも。
設立以来NTTにいろいろ障壁を受けながらもKDDIがここまでこれたのは、配線網などのインフラ有無や母体企業の格、知名度といった要因は、結局、事業の成否にはほとんど関係なかった。社員一人ひとりの頑張りや創意工夫、あるいは業界再編などの節目で経営陣が正しい判断を下せるかどうかといった要素の方がはるかに重要だ。