掲載時肩書 | 富士写真フイルム会長 |
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掲載期間 | 1977/03/29〜1977/04/25 |
出身地 | 兵庫県小野 |
生年月日 | 1899/11/07 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 78 歳 |
最終学歴 | 関西学院大学 |
学歴その他 | 関学高商 |
入社 | 岩井商店 |
配偶者 | 同志社高女 |
主な仕事 | 大日本セルロイド->富士写真フイルム、富士写真コンテスト、富士写真光機、富士ゼロックス |
恩師・恩人 | 浅野修一 |
人脈 | 水池亮(内務省・友)春木栄、渡壁全一、藤沢信、吉村寿雄、庄野信雄、 木下恵介・高峰秀子、城戸四郎 |
備考 | 陽太郎(長男) |
明治32(1899)年11月7日―昭和52(1977)年8月12日、兵庫県うまれ。実業家。昭和2年から7年間、ロンドン支店で当時世界市場を制覇していた大日本セルロイド社のセルロイド製品を欧州各国に売り込む。9年大日本セルロイド写真フィルム部が分離して設立された富士写真フィルムに営業部長として移る。12年取締役となり、常務、専務を経て、35〜46年社長。この間、25年日本写真界初の公募による「富士写真フォトコンテスト」を開催、26年には国産初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」のフィルム製作などを通して業績を伸ばし、富士写真フィルムをコダックなどと肩を並べる世界的なフィルムメーカーに発展させた。また、37年英国のランク・ゼロックス社と合弁で富士ゼロックスを設立、社長を兼務した。
1.日本の映画
明治30年(1897)前後から本邦に導入され始めた映画は、一挙に国民の娯楽として普及し始めた。明治32年には早くも国産映画が製作され、明治の終わりごろには、目玉の松ちゃん、尾上松之助という大衆スターが現れ、無声映画の黄金時代を迎える。そして大正(1925)の終わりから昭和初期には、溝口健二、衣笠貞之助、五所平之助、小津安二郎といった日本の映画史に輝く名監督が輩出、そしてトーキーが導入され、映画はいよいよ国民の生活に欠かせない娯楽の王座に就いたのである。
ちなみに昭和9年(1934)中の映画検閲本数は17,468本、映画館は1,500余館、年間観客数は2億5千万人、映画俳優男女合わせて2,749人、映画監督79人という数字が、昭和11年(1936)当時、文壇の大御所と言われた作家菊池寛によって記されている。
2.映画「カルメン故郷に帰る」裏話
昭和25年(1950)当時、富士フィルムでは早くから天然色フィルムの研究を始めていて、軍用のもの、プロ用のロールフィルムなどを作っていたが、いずれも外型の反転フィルムである。内型のフィルムはまだどこにも商品化されていなかった。
しかし、国産カラー映画の採用を決めた松竹は、すでに8月から軽井沢でクランクインしているという。木下恵介さんがメガホンを握り、高峰秀子さんが主演した「カルメン故郷に帰る」である。私は直ちに陣中見舞いのため車を走らせた。国産カラーの採用を決めた松竹も心配だったのだろう。白黒フィルムを同時に撮影していた。もしカラーが見るに耐えなければ白黒に切り替えるという。そんなことをさせてはならない。
白黒フィルムに比べると感度は三分の一、言い換えれば3倍の光量が必要だ。そのため真夏を選んだのであり、第一線のスターが2か月も軽井沢で缶詰になっていた。セットの周りには大きな反射板がズラリと並べられ、されに大勢の人が監督の指示に従って反射板をもって動き回る。もう周囲の山はもみじに彩られ始めているのに、撮影現場はまるで蒸し風呂のような暑さだった。残暑の頃はさぞ地獄だっただろう。外型フィルムなので、撮影すると直ちに足柄工場に送って現像して色調を見る。ダメならば再び撮影し直す。
翌26年3月20日、国産第1号のカラー映画「カルメン故郷に帰る」の招待試写会が、松竹と富士フィルムの共催で東京劇場で開かれた。2,500人の招待客からは大好評を受け、のちに日本映画文化賞を受け、映倫の第1回推薦映画となった。しかし工場ではこの日の早朝まで、不眠不休の闘いを続けていた。
3.フィルム工場「戦艦大和」完成
昭和26年(1951)から設計を始め、29年6月に完成したが、鉄筋コンクリート延べ19,300㎡、長さ230mという巨大な姿を、当時のマスコミは「戦艦大和」と名づけてくれた。この工場は、創業以来蓄積してきた技術の精粋を傾け、独創的な設備を施している。特に中央管制室によるリモートコントロールシステムは、我が国のオートメーションの先駆をなすものの一つとして大きく注目された。特筆すべきは、この工場では製造試験中に出来たフィルムもそのまま製品として出荷できることだった。これほど設計でも、建設でもミスが少なかったのは初めてであろう。