掲載時肩書 | SF作家 |
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掲載期間 | 2006/07/01〜2006/07/31 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1931/01/28 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 三高 |
入社 | アトム雑誌 |
配偶者 | 略奪婚 |
主な仕事 | 漫画、小説、脚本、SF作家、大阪万博、 未来学会、「日本沈没」、花博、 |
恩師・恩人 | 吉田健一、梅棹忠夫 |
人脈 | 筒井康隆、高島忠夫、寿美花代、高橋和巳、三浦浩、いとし・こいし、星新一、半村良、桂米朝、岡本太郎、開高健、竹内均、朝比奈隆 |
備考 | ひょうきん者 |
1931年1月28日 – 2011年7月26日)は大阪生まれ。小説家。星新一・筒井康隆と共に「SF御三家」と呼ばれ、日本SF界を代表するSF作家でありながら戦後の日本を代表する小説家でもあった。広範囲で深い教養を備えた知識人であり、その活動範囲は幅広く膨大なジャンルにわたる。デビューの直後から、通常の作家の枠を超えた八面六臂の活動を初めている。ジャーナリストして国内各地を歩き、メディア出演を精力的にこなし、未来学研究会やメタボリストなど、多くの学者やクリエイターと交流をもった。1970年の大阪万博では弱冠40歳弱にして主要スタッフに名を連ね、関西財界や政界との密接な交流は晩年まで続いた。その姿は、今「SF作家」という言葉で想像されるものをはるかに超えている。1990年の国際花と緑の博覧会の総合プロデューサーとしても知られる。宇宙開発の振興を目的とした啓発活動にも力を入れ、宇宙作家クラブの提唱者で顧問も務めた。
1.漫才の台本執筆(夢路いとし・喜味こいしの芸に脱帽)
ラジオ大阪(OBC)編成局長で三高、京大の先輩から「漫才の台本書かへんか?」と声がかかったのは、昭和34年(1959)の秋で、私は28歳だった。東京のラジオ番組で人気沸騰の漫才コンビコロンビアトップ・ライトの向こうを張っての企画だった。「おまえ、漫画が得意やろ。漫画みたいなおもろい(面白い)台本がええんやけどな」と言われて、あまり気が進まなかったけれども、喉から手が出るほど金が欲しかった。
いとし・こいしさんは売れっ子で週3回しかスタジオに来られず、1回で二日分、録音する。四百字詰めの原稿用紙1枚でちょうど1分だった。お二人ともまだ30代だったが、旅回り芸人の一家に育ち、戦後は天才的な漫才作家秋田実さんに師事していた。新聞から拾ったトピックスにサゲ(落ち)を付けて、コントを作った。大阪伝統のしゃべくり漫才なのだが、二人の芸風はモダンでシュールな噺も難なくこなした。
2.大阪万国博(太陽の塔)
憧れの人・梅棹忠夫さんの命を受けて私は、万国博のテーマとサブ・テーマの作成、テーマ展示、基本理念策定など、本番前の準備作業にかかわった。結局、サブ・テーマ委員に任命され、チーフ・プロデューサーの岡本太郎さんを補佐するテーマ館サブ・プロデューサーにもなった。万博の象徴、テーマ館は高さ30mの大屋根で建物を覆う丹下健三さんの設計案があったが、岡本さんは「ベラボウな物にする」と宣言。
それが地上70mの太陽の塔で、丹下案を変更するかどうかで議論百出。最後は芥川賞を受賞した石原慎太郎の「太陽の季節」の有名なシーンのように、万博のシンボルが障子のように大屋根を突き破ることになった。この太陽の塔の顔は、メラネシアの祖先像の顔をとそっくりなので、「似てますねぇ」と言うと、さすがは岡本さん、「その昔の太平洋の民族は岡本太郎の真似をしてたんだな!」と叫んだ。
3.「日本沈没」の動機
書き始めた動機は戦争だった。本土決戦、一億総玉砕で日本は滅亡するはずが終戦で救われた。それからわずか20年で復興を成し遂げ、オリンピックを開き、高度経済成長の階段を駆け上がって万博。日本は先進国になった。しかし、豊かさを享受しながら、危うさや不安がいつも脳裏にあった。もし、壊滅的な出来事が日本を襲ったら・・・・。例えば、大地震である。父の実家は千葉の館山の網元で、私は小さいころ、安政の大地震で磯が隆起した現場を見て、「地球はもろいんだ」と恐怖を感じたことがあったのだ。
4.SF文学の存在理由
40億年という時間の中で知性を持った人間がどうして生まれ、進化したのか。宇宙にとって知性とは何か。文学とは何か、哲学とは何か、地球のほかに宇宙に知的生命体がいるのかどうか。人類を、地球を、宇宙を丸ごと描けるのがSFだ。奇想天外で、刺激的で、強靭な物語を作り上げるには、文学的な素養が不可欠で、だからこそSF文学の存在理由がある。私は、まだまだ、頑張ろうと思っている。
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小松 左京 (こまつ さきょう) | |
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ペンネーム | |
誕生 | 1931年1月28日 日本・大阪府大阪市西区 |
死没 | 2011年7月26日(80歳没) 日本・大阪府箕面市 |
墓地 | 箕面市瀧安寺 |
職業 | 小説家 SF作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 文学士(京都大学・1954年) |
最終学歴 | 京都大学大学院文学研究科・文学部 |
活動期間 | 1961年 - 2011年 |
ジャンル | SF 評論、随筆 |
主題 | 生命・人類・未来 未来学 |
代表作 | 『復活の日』(1964年) 『果しなき流れの果に』(1966年) 『日本沈没』(1973年) 『さよならジュピター』(1982年) 『首都消失』(1985年) 『虚無回廊』(1987年) |
主な受賞歴 | 星雲賞日本長編部門(1971年・1974年・1983年) 星雲賞日本短編部門(1973年・1976年・1978年) 日本推理作家協会賞(1974年) 日本SF大賞(1985年) 星雲賞特別賞(2011年) 日本SF大賞特別功労賞(2011年) |
デビュー作 | 「易仙逃里記」(1962年) |
配偶者 | 克美(1958年結婚) |
公式サイト | 株式会社イオ(小松左京事務所) |
ウィキポータル 文学 |
1931年〈昭和6年〉1月28日[1] - 2011年〈平成23年〉7月26日)は、日本の小説家。本名: (こまつ みのる)。
(こまつ さきょう、『易仙逃里記』(1962年)でデビューして以降、人類と文明の可能性を模索し続けた、SF小説の大家。作品に『日本アパッチ族』(1964年)、『果しなき流れの果に』(1966年)、『日本沈没』(1975年)など。
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