掲載時肩書 | 東京外大名誉教授 |
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掲載期間 | 1977/05/27〜1977/06/25 |
出身地 | 岡山県 |
生年月日 | 1908/10/15 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 東京外国語大学 |
学歴その他 | 東京外語 |
入社 | 高田高等女学校 |
配偶者 | 初回見合いで |
主な仕事 | 米沢高工、東京外語、歌舞伎の英訳、ラジオ英語、渡英米、母校学長、大学院設立、日本語教育センター |
恩師・恩人 | 岩崎民平教授 |
人脈 | 赤尾好夫、岩田一男、五味川純平、安西愛子,松田とし、 |
備考 | サーティフィケート(証明書)、ディプロマ(卒業)、ディグリー(学位) |
1908年10月15日 ‐ 1990年7月31日)は岡山県生まれ。英語学者、東京外国語大学名誉教授。神田外語大学初代学長。発音を重視した英語教授法を広めた人物として一般に知られている。英語教育においては「語学の学習は根本的には誤りをおかさせないようにすることが大切である。間違ったことは、耳にも聞かせず口にも発音させず目にも見せず手でも書かせないようにしなければならない。一方では『よくわかる英文法』をはじめとして自身が出版した入門書は、極力項目を減らして、説明を丁寧にしてある。
1.東京外国語学校の学友・・赤尾好夫君
昭和2年(1927)に4年生の専門学校として発足した外語の第1回学友に、イタリア語の赤尾好夫君がいる。彼とは学生時代から今日まで二人三脚のような友人関係である。赤尾君が旺文社という出版社を経営しているので英語に関する私の著書の大部分は旺文社から出している。また実用英語検定協会の理事長と会長という関係でもある。赤尾君との友情が生まれた発端は次のような事情による。
私は農村の出身で入学早々の校内弁論大会で「日本の農村はどこへ行く」という演説をした。それを聴いていた赤尾君が激しくやじったのである。私もきかぬ気であり、彼も頑固であるから、壇上でやり合った。とにかく赤尾氏は一度言い出したら一歩も引かぬ。お互いに相当やり合ったことが友情のきっかけとなった。
2.NHKで基礎英語放送担当
昭和21年(1946)2月、NHKからの話で堀栄四郎先生の後を受けて基礎英語放送をやってみないかと誘いを受けた。この基礎英語は唯一の権威ある語学放送だった。当時39歳の私には大役だったので躊躇したが、清水の舞台から飛び降りるつもりで運を天に任せて引き受けた。
当時はテープレコーダーなどはなく、全部生放送だった。その上に私は郊外の三鷹に住んでいたので、内幸町のNHKまで行くのに1時間以上かかった。しかも基礎英語の放送は午前6時開始である。だから5年間は午前4時起床の生活が続いた。また今と違って外食するところはなく、朝食と昼食の二つを抱えてNHKに通った。時には夕食まで持参した。放送後、外語に出勤したからである。
私と時間帯が一緒になる人はラジオ体操関係の人と、歌のおばさんの松田としさんと安西愛子さんだった。その当時は日曜も含めて1週7日の放送なので緊張した365日だったが、懐かしい。
3.アジア・アフリカ(AA)言語文化研究会・・・学長時代
外国語大学の初代学長は沢田節蔵氏、二代目の学長は岩崎民平氏で私は三代目の学長となった。初代以来任期は最初4年、再選の場合は2年、三選は一応ないということになっていた。しかし、当時として若かったせいか、昭和42年(1967)に三選された。
昭和39年(1964)に大学院の創設と同時に、全国の外国語共同利用研究所として生まれたのがアジア・アフリカ言語文化研究所である。これはもともと日本学術会議の要望によって生まれたものであるが、最初は東大にするか、外国語大学にするかで甲論乙駁の議論があった。結局、東京と大阪の両外語大に付置と決まって、大阪の方は主として研修を受け持つことになった。
共同利用研究所なので各大学の代表がいろいろ協議した。東大からは山本達郎博士、服部四郎博士、京大からは貝塚秀樹博士、桑原武夫博士、泉井久之助博士など各方面の碩学の集まりで、創立前後の会合や運営委員会などではいろいろ勉強させていただいた。