掲載時肩書 | 城南信金理事長 |
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掲載期間 | 1970/08/05〜1970/09/02 |
出身地 | 東京都大崎 |
生年月日 | 1899/10/28 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | 大崎信用組合 |
配偶者 | 魚仲買人娘 |
主な仕事 | 台湾視察、小原菜園、城南信用組合(15信用組合合併)、信用金庫、「杉の子会」会長、全国信連会長 |
恩師・恩人 | 立石知満(創立者) |
人脈 | 大神善吉、荷見安、池田勇人、前尾繁三郎、酒井熊次郎、志津義雄、村上義之助、水田三喜男 |
備考 | 広言(内閣総理大臣・勲一等・正一位) |
1899年(明治32年)10月28日(戸籍上は11月1日) – 1989年(平成元年)1月27日)は東京生まれ。城南信用金庫の第3代理事長・会長であり、全国信用金庫連合会(現:信金中央金庫)会長や全国信用金庫協会会長の両会長職も永年にわたって務めた。歯に衣着せぬ直言で金融界のご意見番といわれる。政官財にも強い影響力を持っていた。また信金業界の業界団体のトップとして長きにわたってリーダーシップを発揮し、信用金庫の発展に努め、信金業界において多大な功績を残した。その実績から「信用金庫の神様」とも呼ばれている。
1.起点:大崎信用組合
大正8年(1919)7月9日、大崎町役場の一室で正式に発足した。従業員は3人。設立当時の記録を見ると初年度(大正8年)加入組合員数233人、出資総額1336口の4万8円、大正9年は364人、1835口の5万5千50円となっているから、滑り出しは結構、順調だったといえるようだ。
信用組合の本質は、組合員の組合であるから、その貸付金が「組合員の家へ行って、働いてくるように」、と言って送り出す。ですから、組合員のためになる金は貸すが、いくら担保があるからと言っても、ためにならない金は貸してはならないと思う・・、担保が十分にある人は,よその銀行などへ行っても借りることができる。しかし、信用組合は小さな金しか借りられない人が多いから、こうした人への立場を考え、安い金利で金を貸すべきである。これは昭和5年(1930)、私が産業組合中央会主催の雄弁会で優勝した論旨である。
2.私の融資哲学
私は“人間が担保である”という考えでこれまで進んできている。「人間の性は、これ善なり」。だいたい担保を取って金を貸すのとそうでないのとは、受け取る側のありがた味に雲泥の差がある。「そこまで私を買ってくれるのか」この気持ちが事業に大きな作用をもたらすのである。それから、融資をする金は、少なくても、また、多くてもいけない。少なければ、足りない分を高利の金融機関に求めることになるし、多ければ多いで、また貸ししたり、別事業に手を出しかねない。あくまで、その人間、器量に応じた融資態度が必要だ。
昭和6年(1931)秋、満州事変の勃発で五反田周辺は、中小工場の進出でにぎわい、「大崎信用組合」は、一転して、これらの工場育成という大役に取り組まねばならなくなったが、その間、私はこの「融資哲学」でことに望んだ。勿論、当時のことだから、経営あるいは技術面が伴わず、つぶれてはまた起きるというように、中小工場の興廃は激しかった。事実、それによって貸し金の回収不能になったものもないではない。しかし私は、それは「大崎信用組合が生きた中小企業金融をやったればこそ」と思っている。
3.城南信用金庫への発展
私が専務理事就任、最初の仕事に城南地区の「信用組合」の合併という大きな問題が持ち上がってきた。それは昭和17年(1942)5月、政府が打ち出した金融事業整備令が背景にある。私は最初の合併提案(昭和20年2月ごろ)があった後も、しばらくはこの問題をいろいろ難題があるので放っておいた。すると、5月、五反田地区が空襲に会い、「大崎信用組合」は被災を免れたものの、組合員、預金者の大半は、工場、店舗あるいは住居を失ってしまったので、大きな資金需要が押し寄せるのは明らかである。
私は思い立って、単身、系統機関である農林中央金庫の門をたたいた。「3千万円貸してほしい」。当時の3千万円と言えば、今日の数億円にも匹敵する金額である。しかも、これだけの金を借り出すには、それに必要な資格証明、印鑑証明、実印といった手続きが必要となる。ところが、荷見安理事長は、私のふちの欠けた認印一つでポンと3千万円を出してくれたのである。私はこの態度に驚きもし、大感謝もした。
このお陰で、合併調印にこぎつけたのは、なんと終戦5日前の8月10日である。こうして、大崎、品川、大井、大森、入新井、馬込、池上、蒲田、六郷、矢口、羽田、荏原、碑衾、駒沢、砧の15市街地信用組合は、新しく「城南信用組合」として誕生したわけだが、あと5日遅かったら、今日の「城南信用金庫」があったか、どうか・・あぶないところであった。
おばら てつごろう 小原 鐵五郎 | |
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生誕 | 1899年10月28日 |
死没 | 1989年1月27日 (89歳没) |
職業 | |
栄誉 |
小原 鐵五郎(おばら てつごろう、1899年(明治32年)10月28日(戸籍上は11月1日) - 1989年(平成元年)1月27日)は日本の信用金庫経営者。城南信用金庫の第3代理事長・会長であり、全国信用金庫連合会(現:信金中央金庫)会長や全国信用金庫協会[1]会長の両会長職も永年にわたって務めた。歯に衣着せぬ直言で金融界のご意見番といわれる。政官財にも強い影響力を持っていた。
また信金業界の業界団体のトップとして長きにわたってリーダーシップを発揮し、信用金庫の発展に努め、信金業界において多大な功績を残した。その実績から「信用金庫の神様」とも呼ばれている。勲等は勲三等瑞宝章、勲二等瑞宝章及び従三位勲一等瑞宝章。