小原豊雲 おはら ほううん

芸術

掲載時肩書華道小原流家元
掲載期間1979/08/22〜1979/09/16
出身地大阪府
生年月日1908/09/29
掲載回数27 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
高等学校
学歴その他大阪府立園芸学校
入社家元の手伝い
配偶者妹の友人
主な仕事祖父(自然、小動物)、父(上流家庭→大衆化)、南方民族生花、三芸(花・絵・陶)展、前衛挿花、国際化
恩師・恩人祖父・雲心
人脈東条久寿馬、千宗室、勅使河原蒼風(二人展)、中山文甫、桑原専渓、宇野三吾、清家清
備考祖父が盛花創設、祖母(文楽、浄瑠 璃)
論評

1908年9月29日 – 1995年3月18日)は、大阪府出身の華道家。父であった二世家元小原光雲(おはらこううん)の跡を継ぎ、いけばな小原流三世家元となる。光雲は池坊幹部であり、池坊は小原流の併用を容認していたが、光雲死後二枚看板を認めないとしたため池坊と対立することになるが、戦争が激しくなり国家総動員法が成立し、流派の対立どころではなくなった。戦後は前衛いけばなで、中川幸夫、勅使河原蒼風、中山文甫らとともに活躍する。1945年(昭和20年)、進駐軍に接収されていた主婦の友社本館で勅使河原蒼風との二人展を開催する。

1.勅使河原蒼風氏(7歳上)
戦後、前衛挿花運動が盛んなころ、東の勅使河原蒼風、西の小原豊雲と、東西の領袖の如くに言われたが、勅使河原氏はある席で「君と僕がそろうと、必ず何か一騒動起こるね。これは名前のせいもある。蒼風と豊雲が出会うんだから、どうしても“風雲”急を告げる結果になる」と言われて大笑いになったことがある。

2.いけばな指導法の転換(上流家庭から大衆化)
祖父は、自ら創案した盛花は我が身一代のものだと思っていた。祖父が亡くなった時、私はまだ尋常小学校の1年生だったから、流内の事情なども分かる年ではなかったが、小原流を学ぶ者は激減した。生前、祖父の直門であった者が「盛花は雲心先生一代限りのものだ」と去っていき、ために盛花はもう衰亡するとまで花道界で取りざたされた。たしかに祖父の創始した盛花は、雲心個人の芸術家としての魅力に支えられて大きく普及した面があったから、雲心亡き後はその魅力を減じたことは否めない。後を継いだ父、光雲も衆に抜きんでたいけばなの名手ではあったが、去っていく者を止めることはできなかった。
 父は、よしそれなら、こんなふうにその場限りでやめていく、いわゆる楽しみとしていけばなを習う人を相手とするより、専門家の養成に重点を置いて出発しよう。それが引いては一般大衆の中へ広く小原流を浸透させる早道なのだと考えた。こうして自宅での教授といういわゆるお師匠さん的な教授方法から脱却して、一斉教授による講習会という形式を始めたのは、父が初めてであった。全国をめぐって女学校や公会堂で無料講習という形で大衆への浸透を図り、また新聞や雑誌の誌上に婦人講座を持ったのも、父が最初の花道家であった。

3.駐在・外国夫人がいけばなを国際化
敗戦によって日本は一時すべての面で自信を喪失していたが、このとき日本の伝統文化のすばらしさを発見し、その価値を高めたのは外国人であった。マッカーサー夫人やリッジウェー大将の奥さんなど、将校夫人たちがいけばなを習うようになった。私もリッジウェー夫人の花の指導にアメリカ大使館に行くようになった。リッジウェー夫人は非常に熱心で、まず生け方を説明して手本花をいけ、それから自分でいけさせるのであるが、夫人は「自分がいけているときは横から一切くちばしを入れるな。良くも悪くも自分一人でいけるのが当たり前であろう。それをミスター・オハラが批評せよ」と、言うのである。いけ方の指導などは手を貸してやるのが親切だと思っていた私には、外国人のものをつくる姿勢、ものを学ぶ態度に感心させられた。
 このアメリカの将校夫人たちを集め、いけばなのグループを作るべく骨折ったのはアレン大将夫人であった。アレン夫人は自らもいけばなに深く興味を持ち、研究した人であるが、同時にいけばなを習う外国人を組織化し、帰国した後もいけばな研究団という形で、団体で来日して勉強するコンダクターになったりした。
 このアレン夫人の発案で昭和31年(1956)、イケバナ・インターナショナルという文字通り国際的ないけばな愛好家の団体ができた。日本のいけばなが世界のイケバナになったのも、最初のアレン夫人の努力がきっかけとなったのである。

小原豊雲(1955年)

小原 豊雲(おはら ほううん、1908年9月29日 - 1995年3月18日)は、大阪府出身の華道家。いけばな小原流三世家元。大阪府立園芸学校卒業。本名、豊。

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