掲載時肩書 | 元米国野村証券会長 |
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掲載期間 | 2011/11/01〜2011/11/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1931/10/03 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 早大高 |
入社 | 野村証券 |
配偶者 | 再婚27歳下 |
主な仕事 | フルブライト留学、NV勤務、国際機関長官、参議員、経企長官、ローンスター、東京スター銀行で東京相和を買収 |
恩師・恩人 | 相田雪雄、行天豊雄 |
人脈 | 小林陽太郎(フル友)、服部一郎、岩国哲人、早坂茂三、細川護熙、小池百合子、草笛光子、堤清二、中嶋常幸 |
備考 | 豪州パースで永住予定 |
1931年10月3日 – )は東京生まれ。実業家、政治家。野村證券副社長、ローンスタージャパン会長、東京スター銀行会長、多数国間投資保証機関長官(初代)、参議院議員(1期)、経済企画庁長官(第49代)、参議院外務委員長等を歴任した。アジア人で史上初めてボストン証券取引所の会員になり、次いでニューヨーク証券取引所の会員に。また1973年には、ウォール街への証券投資を日本で初めて手掛けた功績が評価され、ニューヨーク市の市民団体から『名誉市民』の表彰を受けた。
1.国際人・盛田昭夫さんの考え
1961年は日本証券市場、画期的な年となった。日本企業で初めてソニーが米預託証券(ADR)発行に踏み切ったのだ。野村証券は17・5ドルで計20万ADRの引受業者として準備に入る。私は毎日、品川にあるソニービルに通った。盛田氏が一人で会社を仕切っていた。40歳になったばかりの男盛りだった。盛田氏は早くから「現場主義」を考え、消費者のそばに早くサービス・販売拠点をつくり、場合によっては資金調達も現地ですることを念頭に置いていたようだ。
61年6月、ニューヨーク市場で発行することになった。主幹事証券は、野村と米スミスバーニーである。盛田さんとノースウェスト機でアメリカまでご一緒した。10歳も年下の私を「クン」づけにせず、いつも寺澤さんと呼んでくれた。英語は決して流暢とはいえなかったが、アメリカ人の心を掴む熱心な口調で堂々と対応した。常に良子夫人と世界中の人々を自宅に招待していた。あれほど偏見のない人も珍しい。
「寺澤さん。日本人は年をとったらさっさとリタイアして、世界各国の同年輩の友人とゴルフをしたり釣りをして楽しく遊ぶべきです。世界中に個人的な友人を持つことが日本のためになるのです」と言った彼の言葉が未だに頭の中を去らない。国際人の盛田さんは、国家間の外交よりも個人の交際の方を評価した。
2.ニューヨーク証券取引所の会員権取得
5年間の東京本社勤務をはさみ、1980年7月、再び米国野村証券社長としてニューヨークに赴任した。3度目の米国勤務。私は常務になっていた。
このとき、瀬川美能留相談役が私に一つの使命を課した。ニューヨーク証券取引所(NYSE)の会員権取得である。NYSEは77年に会員権を外国人に開放した。いずれ日本人も会員になるだろう。どうせなら第一号になりたいと私自身も狙っていた。前回会員権取得のボストン証券取引所と同じようにNYSEも個人会員制である。資格試験に通らなければならないが、試験は2度目だから自信はあった。
81年7月16日、NYSEの会員になった。当時の会員数は1366人で私の番号は1620。1620年は英国から清教徒がメイフラワー号でアメリカのプリマスに上陸した年である。パイオニアが好きな野村にふさわしい。縁起のいい番号でうれしかった。会員になってからは業界の集まりにはできるだけ出席した。ウォール街での交友も自然に広がった。思い出深い人々が数多くできた。
3.多数国間投資保証機関(MIGA)の長官に
国際機関の長官というと、「長官公邸は」とか「公用車は」とか、極端な例では「警官のオートバイの先導は」などと聞かれ、困ってしまう。そんなものはない。世界銀行グループの4番目の国際機関である多数国間投資保証機関(MIGA)は、専門職21人、補佐織11人の合計32人の小さな所帯でスタートした。
日本からの秘書官は必要ないと再三断ったにもかかわらず、大蔵省と通産省から一人ずつ私の補佐官としてワシントンに来た。二人は東大法学部の同期生だった。英語はともかく、グッドモーニングという朝の挨拶もままならない。私は東大法学部卒のキャリア官僚に、朝、職員と目を合わせて大きな声で挨拶することから始めなければならなかった。今後日本から国際機関に出向いて働く人たちの英語学習は、話したり聞いたりすることも大切だが、現地への論文を書いたり他国の文化や芸術を読んでおくことも重要だと思う。
寺澤 芳男 てらさわ よしお | |
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生年月日 | 1931年10月3日(93歳) |
出生地 | 栃木県佐野市 |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部 ペンシルベニア大学 ウォートン・スクール |
前職 | 野村證券副社長 |
所属政党 | (日本新党→) (新進党→) (フロム・ファイブ→) (民政党→) 民主党 |
称号 | MBA(ペンシルベニア大学) ニューヨーク市名誉市民 |
初代 多数国間投資保証機関長官 | |
在任期間 | 1988年 - 1992年 |
第49代 経済企画庁長官 | |
内閣 | 羽田内閣 |
在任期間 | 1994年4月28日 - 1994年6月30日 |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1992年7月26日 - 1998年7月25日 |
寺澤 芳男(てらさわ よしお、1931年10月3日 - )は、日本の実業家、政治家。
野村證券副社長、ローンスタージャパン会長、東京スター銀行会長、多数国間投資保証機関長官(初代)、参議院議員(1期)、経済企画庁長官(第49代)、参議院外務委員長等を歴任した。