富安風生 とみやす ふうせい

文芸

掲載時肩書俳人
掲載期間1961/05/01〜1961/05/26
出身地愛知県
生年月日1885/04/16
掲載回数26 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他一高
入社逓信省
配偶者友人妹
主な仕事文科→法科、短歌→俳句、 次官退官(2.26事件)欧米視察、退官後全国行脚、俳句会長、
恩師・恩人高浜虚子
人脈安倍能成、鶴見祐輔、藤村操、柳田国男、大橋越英子、大屋敦、山口誓子、柳田国男、東洋城、秋桜子
備考東大俳句会結成
論評

1885年(明治18年)4月16日 – 1979年(昭和54年)2月22日)は愛知県生まれの俳人。高浜虚子に師事。逓信省に勤めながら俳誌「若葉」を主宰。温和な作風で知られた。1928年(昭和3年)、逓信省内の俳句雑誌「若葉」の選者となり、のちに主宰誌とする。岸風三楼、菖蒲あや、清崎敏郎、加倉井秋を、岡本眸らを育てた。また「ホトトギス」の僚誌「破魔弓」が同年7月号から改題により「馬酔木」となった際には、水原秋桜子らとともに同人のひとりであった。1929年(昭和4年)、「ホトトギス」同人。1936年(昭和11年)、逓信次官の職を辞して官界を引退、「句作三昧の生活」に入る。戦後は電波監理委員会委員長を務めた。

1.一高時代のクラスメート
明治36年(1903)に運よく一高に入れた。英語は夏目漱石が担当していた。クラスメートの誰彼を考えると、さすがに選ばれた玉ばかりで、志す道のほんとの勉強をしたり、真剣に人生を考えたりしていた。新渡戸稲造先生の門に入っている人もいた。要するにポッと出の私などと比較にならぬほど、みんなませていた。安倍能成、鶴見祐輔、高橋穣など、そうそうたる連中と私も机を並べていたわけである。安倍君は、上の級から落ちて来て一緒の組になった。私などは想像できぬ老成ぶりだったわけだが、落第なんてことは君の眼中にはなかったのだ。藤村操、魚住影雄などという小哲学が、若くして砕けていった時代である。

2.逓信省に入る
明治43年(1910)7月、まずは順当に帝国大学を卒業した。数え年26歳だった。就職の世話は、もっぱら商法の岡部敬次郎先生の役だった。一見取りつきにくい、難しい顔をしておりながら、実に親切な人だった。その先生がまた極端に、点数がやかましかった。就職難の時代だったが、逓信省からは大学の教務へ、10人限り採用の連絡があった。先生は細かい点数表を控えていて、希望を申し出るわれわれ学生の中から、何十何点何分で、キッカリ区分をつけて、10人を推薦され、その中へ私も入れてもらった。
 7月20日付、通信局勤務を命ず、という辞令をもって、官界へ第一歩を踏み出した。大臣は後藤新平、次官は仲小路廉。後藤新平大臣から10人を前に、ドイツ語をはさんだ訓示を与えられた。

3.役人時代の俳句歴
私は大正7年(1918)6月、為替貯金局事務官に任じ、為替貯金局長として、約1年間、福岡に在任した。丁度そのころ福岡に、学友で、鉱山監督局に勤めていた高崎烏城君、三井銀行支店に勤めた岩田紫雲郎君という二人の同好がおり、この手引きで俳句を遊び始めたことが“生涯のはかりごと”となってしまった。
 下地は好きなり、役所はひま、おばさんと二人きりの退屈な独身生活、諸条件のうまく整ったところで、投げられた俳句という餌に、私はダボハゼのように食いついてしまった。たまたま高浜虚子先生が、津田清楓画伯、「ホトトギス」発行所の山名一三氏とともに、山陰の俳句行脚から福岡に回られ、その公会堂の歓迎句会と、夜の晩餐会に列してから、のどふかく針を飲み込んでしまった。虚子先生が、まだ盛んに酒を飲まれた時分のことである。その夜の揮毫品を紫雲郎がみんなに分けた。今も私はそれを大事にしている。

4.次官退職後にご奉仕を
昭和12年(1937)5月に退官したが、10年後に公職追放にならなかった私が、公職資格訴願審査員という公職追放者の復帰訴願を審査することになった。また25年(1950)には電波管理委員長を要請された。電波行政は華やかではあるが、厄介なことは、占領下の行政であり、すべてはGHQの制ちゅうの下にあることだった。お堀端の手前は、適当に糊塗しなければならぬ内外の情勢であった。マッカーサーの出勤を見るために、毎朝玄関前の舗道に、八文字の人垣ができた時分である。バック准将、クンツ大佐、ファスナー氏・・・懐かしい顔をあれば、あんまりそうでないものも浮かぶ。

富安風生句碑『湖浮び 芒に沈む 荘の屋根』
(山中湖村・文学の森)

富安 風生(とみやす ふうせい、1885年(明治18年)4月16日 - 1979年(昭和54年)2月22日)は、日本の俳人。本名は謙次。高浜虚子に師事。逓信省に勤めながら俳誌「若葉」を主宰。温和な作風で知られた。愛知県出身。

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