掲載時肩書 | 旭化成工業社長 |
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掲載期間 | 1983/12/07〜1983/12/31 |
出身地 | 長崎県 |
生年月日 | 1909/04/19 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 五高 |
入社 | 日本窒素肥料 |
配偶者 | 鼓師匠夫人の姪 |
主な仕事 | 旭ベンベルグ・旭化成、旭ダウ、サランラップ、カシミロン、ダボハゼ経営(繊維,建材、合成ゴム、住宅)、日米繊維交渉、医療法人十全会株買占(朝日麦酒と提携) |
恩師・恩人 | 堀朋近社長 |
人脈 | 古荘幸一、黒田義久、石橋正二郎、谷口豊三郎、大屋晋三、野口遵 |
備考 | 散歩礼さん |
1909年(明治42年)4月19日 – 1992年(平成4年)4月17日)は長崎県生まれ。昭和・平成期の企業経営者。旭化成中興の祖と呼ばれた。社長在任時には「ダボハゼ経営」、「いもづる式経営」と呼ばれる積極果敢な多角化に乗り出したほか、日米繊維交渉では日本化学繊維協会会長として業界側代表として楠岡豪ら通産省の現場らと連携した。
1.旭ダウの誕生
昭和25年(1950)の夏、戦後初の訪米ミッションの一員として、米国へ渡った。米国の労働問題を勉強するのが主な目的だったが、もう一つの大きな期待をかけていた。それはダウ・ケミカル社から、塩化ビニリデン繊維「サラン」の製造技術を導入することであった。ミッションの日程を終えた後、研究部長の角田吉雄君(前旭ダウ社長)、外国部長の煙石学君(現旭チバ専務)と合流し、ミッドランドにある同本社を訪れた。
技術導入交渉は予想通り難航したが、27年(1952)7月、旭化成とダウ・ケミカル社の子会社ダウ・ケミカル・インダストリーとの折半出資による旭ダウが誕生した。塩化ビニリデン繊維「サラン」が収益的に安定したのは、ハム・ソーセージなどの食品包装材として、食品分野に進出してからである。まず35年〈1960〉1月に業務用として生産を始め、次いで「サランラップ」という商品名で家庭用にも売り出した。これが折からの冷凍食品やインスタント食品の出現、電気冷蔵庫の普及などで、需要は爆発的に伸び、やっと軌道にのることができたのである。
2.石油コンビナートへの進出
私は旭ダウによるスタイロンへの進出以来、石油化学事業の”本丸“ともいうべきエチレンセンターの建設を念願としてきた。40年〈1960〉代初頭、遂に石油化学コンビナートへの進出を決断したのである。石油コンビナートというのは、ナフサ分解を受け持つエチレンセンターを中心に、各種の誘導品工場をパイプラインで繋いだ一大工場群のことで、重化学工業化に取り組んでいたわが国経済の中心的存在であった。
我々の計画は岡山県水島地区(倉敷市および児島市)に、旭化成と旭ダウ、日本鉱業、日産化学工業の4社でコンビナートを造ろうというもので、エチレンセンターの設備能力は年間12万トンを予定していた。ところが三菱化成工業も同じ水島地区で石油コンビナートを造る計画があり、通産省の斡旋もあって、先方の篠島秀雄社長(故人)とトップ会談を持ち、合意に達することができた。
昭和43年(1968)7月、旭化成60%、日本鉱業40%の出資比率で山陽石油化学が設立された。同時にこの会社と三菱化成の折半出資による水島エチレンもつくられ、30万トンの設備能力を持つエチレンセンターの建設に着手した。45年7月に完成し、生産品目は両社が折半で使用するが、工事の主体と運営は三菱化成が担当した。
3.ダボハゼ経営の弁明
マスコミを中心に世間の一部では、時々、旭化成のことを”ダボハゼ経営“と呼んでいる。恐らく、旭化成の事業展開が、ダボハゼみたいに何でも食いついているように見えるから、そんな呼び方をするのだろう。
確かに旭化成は、私自身も覚えきらないほど多種多様な製品を作っている。つまり、合成繊維は勿論のこと、合成樹脂、合成ゴム、食品、薬品、医療機器、あるいは住宅・建材など、衣食住にかかわる分野にはほとんどと言ってよいほど進出している。従って、表面的に見れば、なぜ繊維屋がハンバーグや抗がん剤、人工腎臓など異質の製品を作っているのか、不思議に思えるかも知れない。
しかし、これは住宅・建材を除けば、すべて一本の線で繋がっている。決して落下傘で飛び降りるみたいに、突飛なことをやっているわけではない。旭化成は、もともと野口遵さんの興したアンモニア合成事業の有効利用を図るため、日本窒素肥料の子会社としてスタートした。それだけに、基幹となる技術はあくまでもアンモニアに関連したものである。長い間、旭化成を支えてきたベンベルグにしても、コットンリンター(綿実)をアンモニアに溶液で溶かすことによって生まれた製品である。
また、自家発電所の余剰電力の有効利用として、食塩の電気分解によるカセイソーダの製造が始まり、そのカセイソーダを製造する際に発生する塩素から、調味料としてのグルタミン酸ソーダが企業化された。人工腎臓にしたって、ベンベルグの中空糸技術を応用したものである。表面的には何の関連もないように見える各事業も、すべてが有機的につながっているわけだ。その意味で、技術の積み重ねが今日の旭化成をもたらした、と言えるだろう。ダボハゼ経営でないことがお分かりいただけるものと思う。