掲載時肩書 | 小野田セメント相談役 |
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掲載期間 | 1980/03/03〜1980/04/02 |
出身地 | 大分県宇目 |
生年月日 | 1897/01/18 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 83 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 五高、ベルリン工科大学 |
入社 | 小野田セメント |
配偶者 | 学友妹 |
主な仕事 | 平城工場建設、ドイツ留学、満州工場、韓国、日本セメント協会会長、日本化学会、時津風部屋後援会長 |
恩師・恩人 | 仁科芳雄、笠井真三、田中清次郎 |
人脈 | 重光葵・山本達雄(同村)御手洗毅・中村汀女、堀越禎三・進藤武右衛門、細川隆元、向坂逸郎、野口遵、久保田豊 |
備考 | 父:村長、中学ストライキ強制転校、朝鮮抑留2年 |
明治30(1897)年1月18日~平成2(1990)年2月26日は大分県生まれ。実業家。大正10年小野田セメント入社。川内工場長、平壌支社支配人などを経て、19年取締役、22年専務、23年社長に就任。41年取締役相談役、50年相談役。この間日本セメント協会長を務めるなどセメント一筋に歩むが、財界活動も活発に行ない、経団連の常任理事を53年までの約30年間務めたほか、「むつ小川原開発」社長も引き受けた。37年経済使節団長として訪韓、訪韓は10数回。時津山部屋後援会長。
1.ベルリン工科大学に留学
昭和5年〈1930〉、入社9年後に留学の夢が実現することになった。大学はベルリン工科大学で運搬工学をやることに決めた。セメント関係も同時に勉強することはもちろんである。この大学の運搬工学の一般は、アオムンド教授が担当していた。この人は満州撫順炭鉱の有名な露天掘りの設計をやった人で、この大学の全学友会長をも引き受けており、人気の高い先生であった。クレーンはカンメラー教授、世界的な有名な先生だが、朝7時から講義をされるので閉口した。鉱物はアイテル教授、無機化学はホフマン教授、一般機械工学はシュレジンガー教授、この人は大戦後英国に招かれ大英機械研究所長になられた。陶磁器はリーケ教授、当時世界最高の学者と言われていた。その頃、心理工学というのが出来て、この教授はメーデ先生、プリオン先生という工業経済の先生もおられた。
2.斎藤実朝鮮総督のシャレ
日本は日韓併合以来、35年にわたり朝鮮を統治した。私はそのほぼ6割にあたる23年間、朝鮮で過ごし、かつ終戦後2か年間平城で抑留者としての生活を送った。私が朝鮮に赴任したのは大正11年(1922)すなわち斎藤総督が赴任して3年目に当たる。斎藤さんは、茫洋として一見掴み所のないような人であったが、頭脳は大変鋭く、終始言われることはまず痛烈な皮肉であった。そのダジャレも有名である。
ある時、総督の自動車を買い換えることがあって、その候補車はリンカーンであった。総督のいわく「リンカーンはガソリンをたくさん食うらしいがいかがなものか」。係の課長がそれほどでもないことを力説すると、総督、莞爾として「しかし、アブラハム・リンカーンというではないか」。天下一等のシャレであろう。
3.終戦直後の韓国
昭和20年〈1945〉8月15日、終戦である。そのとき私は平城工場で迎えた。もう日本語は使わぬ、朝鮮語で話せといい、駅員は大変威丈高になっていた。工場では幹部一同と朝鮮人職員に対して「今夜一晩十分に考えよう。何はともあれ朝鮮人職員、行員の利益は損なうようなことはしないからその点は安心してくれ」と言って安堵させた。
翌8月16日早朝から出勤し、まず朝鮮人職員の責任分担を決めた。そして昨日、朝鮮人職員の立ち合いの上で調べておいた金庫を開き、徴用学徒帰省の旅費を支払った。あらかじめ平城の朝鮮銀行支店から預金を引き出しておいたので当分の間、支払いに支障はなかった。そして3日後には工場を休業した。
平城では終戦の8月15日に、早くも当時の朝鮮独立運動家として知られたキリスト教徒曹晩植氏を招いて、彼を首班とし平安南道治安維持委員会が組織された。ソ連軍の先発隊が平城に飛来したのは8月24日である。それに続いて本隊が入城し、27日頃までに朝鮮北部に入ったソビエト兵は12万人といわれる。昭和21年2月になると、北朝鮮臨時人民委員会ができ、金日成将軍が委員長になり、曹晩植氏はソウルに逃れた。以降、全面的に金日成統治に移行した。
私のもとに約200人の日本人がいた。私の仕事はこの人たちに食料を支給してもらうのが最大事であった。幸い工場の掃除や雑役にかなりの人数を使ってもらい、食糧は朝鮮人並みに配ってもらった。これは戦中、工場の方針として朝鮮人と日本人と食糧支給の区別を絶対にしなかったことに対するお礼とのことだった。それでも隠匿した金を出せとの難題でひどい拷問やスパイ容疑で折檻を受けたりした。