安藤楢六 あんどう ならろく

交通(陸海・海運)

掲載時肩書小田急電鉄会長
掲載期間1980/07/31〜1980/08/30
出身地大分県別府
生年月日1900/09/14
掲載回数31 回
執筆時年齢80 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他七高 鹿児島
入社小田急電鉄
配偶者井上敬二郎娘、再婚:渡辺銀行頭取娘
主な仕事新宿・小田原間鉄道、帝都電鉄、箱根戦争、箱根ホテル、箱根ゴルフ、新宿デパート、ホテル
恩師・恩人利光鶴翁、五島慶太
人脈安東龍五、井上定雄、小林中、大川博、山本利三郎、堤康次郎、矢野一郎、渋沢秀雄、西条八十
備考大東急の分割 (大川博)、労使(協調→一体)
論評

1900年9月14日 – 1984年1月11日)は大分県生まれ。実業家。小田急電鉄社長、同名誉会長。小田急百貨店会長。社長就任後、箱根の観光開発に注力、堤康次郎率いる西武鉄道系の伊豆箱根鉄道と対立し、箱根山戦争と呼ばれる競争を繰り広げた。

1.新宿―小田原の開通時
利光鶴松社長は、1927年4月1日に新宿―小田原間複線を一挙に開通する旨予告していたが、予定通りに小田急は開通した。私はその式典当日には、まだ用地の現場にいた。その理由は、列車の遅延や故障が続出してダイヤは大混乱に陥ったのだった。何しろ、開業許可があったのが前日の夕刻だったというほど、ギリギリの工事完成だったから、当日になって不具合なところが出てきた。おまけに従業員の不慣れも加わったからであった。
 だから、新宿から小田原まで2時間23分の予定が、8時間以上かかった列車も出る始末だった。それでも、翌日から現業員はもちろん、本社員や親会社の鬼怒川水力電気の社員までが総出で修理に当たった。そして3日目頃にはどうにか正常に運転できるようになった。10月15日には全線が複線になり、急行列車も運転されて新宿―小田原間は1時間45分に短縮された。

2.五島慶太翁の人柄
昭和15年〈1940〉ごろ、東京高速鉄道の経理課長をやれと言われたことがあったが、その時はお断りした。翁は、時とすると組織も命令系統も飛び越えて、特別の仕事を特別に命じることがある。その命令は昼夜の区別がない。私も翁が小田急に来られてから東急時代を通じて、いろいろな仕事をやらされた。例えば、小田急の監察課長時代のことだが、伊勢原自動車の買収案を作れとかいう仕事を言いつけられた。
 翁を”強盗慶太“などと言う人がある。信念の強さがゆえに人から受けた非難なのであろう。確かに仕事の上では厳しかったが、しかし、人間的には情味の深い方だった。翁が信仰に篤く、古美術の収集、鑑賞に造詣が深かったことはよく知られている。追放時代は京都を訪ねることが多かった。別宅があって、翁は5時になると起床し、自分でご飯を炊き、握り飯をこしらえると、古ぼけた背広を着て、鳥打帽を被り、今日は生駒、明日は比叡と山から山を歩き回った。人家があり、その庭にいい石でも垣間見ようものなら、案内も請わずに庭に入り、「いい石だな・・」と、独り言を言いながら、石の前に立ち止まるのだった。そして家人が出てくると、翁は悠然と微笑を浮かべ、「やぁ、ごくろうさん、お茶を一杯所望」と言い、いかにもうまそうに飲むのだった。

3.堤康次郎翁と箱根山戦争
西武鉄道傘下の駿豆鉄道(現伊豆箱根鉄道)と、小田急の関係会社である箱根登山鉄道との間で起こった、バス路線をめぐる紛争に始まり、これに箱根観光船の設立にからんで、西武対小田急の企業戦争に発展し、10数年に及んだのであった。
 西武コンツェルンの総帥、堤康次郎会長は紛争の発端の頃は公職追放中だったが、ほどなく解除となり、衆議院に議席を回復、衆議院議長にまでなって、政財界に隠然たる勢威を張っていた。向こうは天下の堤、こちらは社長なりたて、ケンカになるまいというのが一般の見方であったかもしれないが、私は負けてなるものかと思った。堤さんは、その著「苦闘30年」の中で、”乗っ取り王“五島慶太の教育を受けた安藤楢六は、乗っ取りにかけては師匠の五島慶太以上で、まさに”出藍の誉れ“である、というようなことを述べておられる。堤さんは自社の有料道路を”専用道路“と称し、これへの路線免許申請を指して「私有財産の侵害」であり、「乗っ取り」だと言われたが、これは正しくは”一般自動車道“であって、”専用道路“というのは言葉のすり替えである。
 紛争が一応決着したとき、私は東京・麻布の堤さんのお屋敷に挨拶に伺った。そのとき、堤さんは私の手をとって「もう、ケンカはよそうや」と言われた。堤さんもつくづく偉いと思う。事業をやり通す信念。これは学ばねばならないと思った。

あんどう ならろく
安藤 楢六
生誕 1900年9月14日
日本の旗 日本 大分県別府市朝見
死没 (1984-01-11) 1984年1月11日(83歳没)
出身校 東京帝国大学法学部
職業 実業家
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安藤 楢六(あんどう ならろく、1900年(明治33年)9月14日 - 1984年(昭和59年)1月11日)は、日本実業家小田急電鉄社長、同名誉会長。小田急百貨店社長。

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