掲載時肩書 | 日本原子力発電社長 |
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掲載期間 | 1958/10/09〜1958/10/26 |
出身地 | 福岡県芦屋町 |
生年月日 | 1886/06/02 |
掲載回数 | 18 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 日立製作所 |
配偶者 | 父の強制 |
主な仕事 | ウェスティング・ハウス社見習工、安川電機(独立)、電機統制会会長、石炭庁長官、安川電会長復帰、日銀政策委員、原子力研理事長 |
恩師・恩人 | 小平浪平 (日立社長) |
人脈 | 久原房之介、末廣厳太郎、菅礼之助、植村甲子郎、石川一郎 |
備考 | 九州炭鉱パイオニアは父と麻生、貝島の両氏 |
1886年(明治19年)6月2日 – 1976年(昭和51年)6月25日)は福岡県生まれ。実業家。米国ウェスティングハウスで研修の後、1915年(大正4年)7月に兄の清三郎とともに株式会社安川電機の前身である合資会社安川電機製作所を創設し、モーター・電動機に製品を絞り込んで発展して1936年(昭和11年)に社長に就任する。戦時中は大日本産業報国会理事となり、第二次世界大戦後は1946年(昭和21年)2月に石炭庁長官に就任するが、同年GHQにより公職追放を受けた。安川電機社長、九州電力会長、日本原子力発電初代社長、日本原子力研究所初代理事長、日本原子力産業会議会長、1964年東京オリンピック組織委員会会長。
1.小平浪平氏に見込まれて日立製作所に
明治44年(1911)東大の電気化学科に在学中、たまたま夏休みを利用して友達4,5人と日立鉱山の水力発電の建設工事場に実習させてもらったが、当時日立製作所が、日立鉱山の修理工場に等しい一事業場として生まれていた。そこに小平浪平という先輩がおり、主事という名で、その製作所の責任者だった。
どこを見込まれたかその小平さんから卒業間際になって話があった。「おれの所に来て働かないか」というのである。父に相談すると「お前を使ってやろうと人がいるなら、少し他人の飯を食ってみろ」とのことだった。小平さん自身電気を出た先輩であるが、もともと水力発電所の建設が得意であった。しかし、当時、外国の輸入機械ばかりを用いて工事建設をしていたので、それを遺憾に思い、一日も早く国産でやれるようにと考えていた。それには電気機械の製造事業を発展させなければならぬというわけで、久原房之介さんに金を出させて、日立製作所をこしらえたのである。私にとって一番、尊敬する人である。
2.米国ウェスティングハウス(WH)で見習工に
私が米国に行ったのは大正2年(1913)10月である。父の口利きもあって米国のウェスティングハウスという電機製造会社に見習いとして入ることにした。このWHはピッツバーグにあり、机を一つあてがってくれた。おまけに図面でも仕様書でも、手続きさえとれば、従業員と同じように見せてくれた。これは大変ありがたい。米国はハラが大きいと感心した。すると後、「お前は明日から工場へ行って見習いとして働け」と言われた。
翌日から作業所に出る。1時間20セント。1日8時間として5日で40時間。土曜は朝7時から半日で5時間、1週45時間で9ドルであった。4週間フルに働けば36ドル。その他請負制度があって、プレミアムがつく。しかし当時のこの36ドルなにがしの金は、そう大した金額―今でもそうだろうがーではなかった。私のように食事つき家庭的な下宿住まいをしたら、倍の70ドルあっても赤字だった。仕事は市街鉄道で使っているようなモーターにコイルを入れる作業で、普通の職工並みにやらされた。
3.安川電機を設立
大正3年(1914)、欧州大戦が始まって間もないころ、米国を去った。少しの間であったが1時間20セントの職工もやったし、下宿住まいもしたし、家庭生活も見た。いい経験を積んだと思う。帰国して、郷里でぶらぶらしていると、父が「資本を出してやるから何か仕事をしろ」と言った。電気化学をやりたいが、全く経験がない。日立製作所とウェスティングハウスの実習で、電気機械の製造についてなら、経営したことはないが、学問的にも技術的にもいくらか分かっている。仕事をするなら、まあ電気機械をやるほかはない。その旨父に告げると「ではそれをやれ」というので、九州の一角に工場を建てた。日立製作所を向こうに回して競走するのはチョッと具合が悪いが、九州にはこれという電機工場もないので、炭鉱向けの仕事を細々ながらやろうとしたわけである。これが今の安川電機の始まりである。
設立登録は大正4年7月、出資者は父と私ら兄弟3人。出資金は4人が5万円ずつで計20万円。この20万円の資本金のほとんど全部を設備費として使った。敷地は1万坪、工場建坪は500坪で総コンクリート。両側に二階を造り、はじめからしっかりした建物にした。