掲載時肩書 | 画家・芸術院会員 |
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掲載期間 | 1973/09/11〜1973/10/07 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1889/02/18 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 84 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | 逓信省 |
配偶者 | 徳島娘、小林古径 仲人 |
主な仕事 | 梶田半古塾(17歳)、武蔵野・女子美・多摩美・芸大教授、歌舞伎装置 |
恩師・恩人 | 梶田半古、小林古径 |
人脈 | 鏑木清方、前田青邨、吉田幸太郎、速水御舟・横山大観(師)、中村時蔵、左団次、猿翁、谷桃子、大佛次郎、山崎種二 |
備考 | 無口、歌舞伎好き |
1889年〈明治22年〉2月18日 – 1990年〈平成2年〉9月25日)は東京生まれ。現代日本の代表的な日本画家の一人。号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられた。院展理事長。梶田半古、小林古径に師事。刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴とされる。<富士山図>(または「富士」)が著名で、皇居にも飾られている。
1.小林古径先生
明治38年(1905)に梶田半古塾に入った。ここでの静かな勉強が毎日のように続いた。私なりに張りのある毎日であった。この塾で古径先生とお会いすることができたのは、この上ない幸せであった。私の一生を左右した幸運であった。先生は、普段は寡黙で厳格だったが、何かを相談すると、優しく、こと細かく教えてくださった。こちらからフトコロに飛び込んで行きたいという気持ちを起こさせるような、つい甘えたくなるような大きさと優しさがあった。
先生は絵の批評をするのでも、細かいことは一切言わなかった。もっと大きな見地から全体について話すのであった。また先生ぐらい一生を通じて変わらない人もめずらしいであろう。名声が上がり偉くなられてからも、少しもそんな素振りは見せられず、最初にお会いした時の印象が、そのまま続いたのであった。
2.無口な性格
古径先生も口数が少なく私も無口の方であるから、静かに一日が終わるのであった。先生があるとき、10日間ばかり紀州の方へ旅行された時なぞの私は、朝ご用聞きと一言二言、話をするだけで、あとは10日間ずっと口を開かなかった。当時の馬込画室あたりは蛇が多いことで有名で、一人で画布を広げて絵を描いていると、天井から大きな蛇がバサリと落ちてくることがあった。
3.「土牛」号の由来
私のこの号は、父の勧めで私のスケッチ集の出版に際して父がつけてくれたものであった。寒山拾得で有名な中国・唐時代の禅僧の偉い坊さんの寒山の詩の中に、「土牛、石田を耕す」というのがあり、それからとったものであった。ちょうど私が丑年の生まれであったし、牛が石ころの多い荒れ地を根気よく耕し、やがて美田に変えるように、お前もたゆまず精進しなさいとの意味が込められてのだと思う。土牛はまた、昔の中国で、春祭りにその年の豊作を祈って飾る飾り物の一つでもあるという。「春牛に同じ」と辞書にある。読みは「とぎゅう」と濁らず読んでいる。私が28の歳であった。
4.横山大観先生
昭和16年(1941)5月、横山大観先生から、突然「某日午後何時に某所に来るように」との鉛筆のはがきをいただいた。指定された日は、はがきを頂いたその翌日であった。定時に伺うと、大変なごちそうでしかも大層なご機嫌であった。先生は杯を上げながら、色々な話をされた。中でも今も忘れることができないのは、「君、絵というものは、山水を描いても、花鳥を描いても、宇宙が描けなかったら芸術とは言えないよ」とのお言葉であった。鳥を描くなら鳥の声が聞こえなくてはならぬ、それが宇宙の生気というものではないか、と言われた。
先生は曲がった事を心から憎み、正しい事を聞かれると慈父の如く優しくなった。私にとって忘れられないのは、大病の時のことである。病気の間中、先生には一方ならぬご心配を頂き、そして病後瘦せ衰えて先生にお礼に伺ったときは心からいたわってくださった。帰りは先生の車で送ってくださり、私はうれしくて、車の中でとめどもなく涙が流れて止まらなかった。
担当記者の苦労話の極め付きエピソードは、文化部長の刀根浩一郎氏が大横綱・双葉山(時津風親方)の担当記者の涙ぐましい苦労話を次のように紹介しています。
「ごっつあんです」で18回(前代未聞の取材)
「双葉山の時津風定次日本相撲協会理事長である。時津風理事長の『履歴書』は昭和三十五年一月末に掲載した。
『履歴書』の原稿が、談話の形式でも出来上がることを知って、時津風さんは登場を承諾、まず記者が取材にうかがった。ところが、時津風さんは、玄関先でその記者に、
『ごっつあんです。よろしく』と一言いったまま奥にひっ込んでしまった。
いかになんでもこれはひどい。『ごっつあん』と『よろしく』で、どうして『履歴書』が書けようか。“周辺取材”を始めるにしても、手がかりさえない。
結局、その記者は、このふた言から十八回の原稿をものにしたが、時津風さんの寡黙ぶりは想像を絶するものがあった」(「談話取材は裏話がいっぱい」215P)
また、日本画家の奥村土牛も寡黙な難敵だったようです。
記者がいろいろ質問しても沈黙しているときが多く、あるときは黙って応接室を出ていき、しばらく戻ってこない。しばらくして戻ってくると、「本日は話す気になれませんので、また後日」と書いた紙を1枚差し出したとのエピソードには仰天しました。困って狼狽する記者の顔が見えるような気がします。
奥村 土牛 | |
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新潮社『芸術新潮』第4巻第3号(1953)より | |
生誕 | 奥村 義三 1889年2月18日 東京府東京市京橋区南鞘町 |
死没 | 1990年9月25日(101歳没) |
国籍 | 日本 |
著名な実績 | 日本画 |
代表作 | 『鳴門』ほか |
受賞 | 文化勲章 1962年 |
選出 | 日本美術院、帝国芸術院 |
影響を受けた 芸術家 | 梶田半古(入門) 小林古径(兄弟子・師事) 横山大観、速水御舟 |
奥村 土牛(おくむら とぎゅう、1889年〈明治22年〉2月18日[1] - 1990年〈平成2年〉9月25日[2])は現代日本の代表的な日本画家の一人。本名:奥村 義三(おくむら よしぞう)[3]。号である「土牛」は、出版社を営んでいた父が寒山詩の一節「土牛石田を耕す」から引用してつけられた[3]。院展理事長。芸術院会員。文化勲章受章。梶田半古、小林古径に師事。
刷毛で胡粉などを100回とも200回ともいわれる塗り重ねをし、非常に微妙な色加減に成功した作品が特徴とされる。<富士山図>(または「富士」)が著名で、皇居にも飾られている[4]。
没後に、作品に課せられた巨額の相続税(没時がバブル期だったので高額になった)に悩んだ子息・奥村勝之(四男で写真家)が、比較的価値の低かったスケッチを焼却処分したことを、著書で告白し話題になった。このことは美術工芸品の相続税制の問題を世に問うことになった[5]。