掲載時肩書 | ソニー会長 |
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掲載期間 | 2003/01/01〜2003/01/31 |
出身地 | 静岡県 |
生年月日 | 1930/01/29 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | |
入社 | sony |
配偶者 | ピアニスト(仲人井深大) |
主な仕事 | 国際ラジオセンター、ドイツ留学、フィリップ、CD、CBSソニー、コロンビア映画、プレイステーション、ベルリンにソニーセンター |
恩師・恩人 | 岩井一郎,井深大、盛田昭夫 |
人脈 | 中山悌一、丸山千里(ワクチン)、岩間和夫、本田宗一郎、川上源一、大町陽一郎、カルメン・マキ、山口百恵、カラヤン |
備考 | バリトン歌手、飛行機免許、 船舶免許 |
1930年1月29日 – 2011年4月23日)は静岡県生まれ。実業家、声楽家(バリトン歌手)。実業家として、CBS・ソニーレコード株式会社社長(初代)、ソニー商事株式会社社長、東京商工会議所副会頭、ソニー株式会社社長・最高経営責任者(初代)・会長、社団法人経済団体連合会副会長などを歴任した。財団法人東京フィルハーモニー交響楽団会長・理事長、東京文化会館館長を務めた。晩年には、経営者・財界人としての活動の傍ら、オーケストラを指揮することがたびたびあった。妻はピアニストの松原緑。
1.恩人・岩井一郎さん
中学時代、最もお世話になったのが岩井産業(現日商岩井)の御曹司、岩井一郎さんである。私は2年のときに肋膜炎を患い、療養生活を強いられたが、「勉強が遅れてはかわいそうだ」と言って家庭教師役を買って出てくださった。岩井産業は傘下に国産電機という電機会社を抱え、航空機の着火装置マグネットの供給で高いシエアを誇っていた。その沼津工場の責任者として、わが家の家の前に住んでおられた。
千本松原は別荘地で子供が少なく、私もませていたせいか同世代の友人はいなかった。一方、岩井さんは夫人を病気で失ったばかり。子供は小さかったので、私のことを子供か年の離れた弟のように可愛がってくださった。私が何でもよくおぼえたので、教えるのが楽しかったらしい。「ほら、これがコンデンサーだよ。何であるのかわかる?」。灯火管制の敷かれた薄暗い部屋。岩井さんは電気蓄音機と配電図を取り出すと、機械いじりの好きな私に電気回路の基本原理を教えてくださった。壊れた電気製品があれば、二人で分解してテスターで測り、何が原因なのかを一緒に研究した。
岩井さんは東京大学の電気工学科のご卒業だが、英語や音楽にも造詣が深かった。私に西洋の歴史や地理、オーケストラのスコア(総譜)の読み方まで教えてくださった。年は17歳も離れていたが、とてもウマが合い、多くの知識を彼から得た。ソニーで技術者と対等に議論できるようになったのも岩井さんの寺子屋教育のお蔭だといっても過言でないと思う。
2.飛行機免許の取得
1962年頃、伊藤忠商事が飛行機を買わないかと言ってきた。最初に購入したのは米ビーチクラフト社の小型機。盛田昭夫さんはそれで東京と大阪を往復していた。社用飛行機が入ると、機械いじりが好きな私は自分でも運転したいと思い始めた。72年に常務としてCBSソニーからソニーに戻ると、独学で勉強して飛行機の免許を取得。74年には本格的な社用機として導入した米セスナ社のジェット機「サイテーション」の免許にも42歳で合格した。
飛行機免許をとるのはかなり大変な作業で、腰丈ぐらいの高さの本を読まねばならない。それに無線免許に計器飛行証明。ジェット機は機種ごとに免許が要る。最終的には8つの免許をとった。私が誇れるのはこれらの免許をすべて試験の難しい日本国内で取ったことである。特にジェット機は至難の業で、いきなり2万フィート(約6千m)まで上昇し、今度は急角度で1万フィートまで急降下する。その間約35秒。試験官も命懸けの仕事だ。
3.帝王・カラヤンの最期
クラシック界の帝王、ヘルベルト・フォン・カラヤン先生に初めて出会ったのは1956年、ドイツ留学中に声楽家の田中路子さんと訪ねた時である。巨匠を前に緊張して微動だにできなかったが、その20年後、CDの開発を通じ急速に親しくなった。晩年は脊髄を傷め、プールで泳ぐのを日課としており、77年秋の来日の際も二人の娘を連れ、プールのある東京・青葉台の盛田昭夫邸を訪れた。ひとしきり泳ぐと「最近の録音技術は?」と聞かれるので、完成したばかりのPCM(パルス符号変調)録音装置で彼のリハーサルをデジタルで聞かせて差し上げた。
カラヤンと私が親しくなった最大の理由は飛行機という共通の趣味である。日本での公演中にも私を楽屋に呼び出し、新しく購入する飛行機の意見を求めた。手紙では親しみを込めて「My Copilot(親愛なる副操縦士よ)」と私を呼んでくださった。言ってみれば私はカラヤンの音響技術顧問であり、飛行機のアドバイザーだった。82年に私がソニーの社長になると「これからはキャプテン(機長)と呼ぶことにしよう」と笑った。
その7年後のことである。私は家内と後に米ソニーの社長となるミッキー・シュルホフを連れ、カラヤンを訪ねた。カラヤンは少し体調を崩されたようで2階の寝室で話すことになったが、私を見るなり新しく購入する仏ダッソー社のジェット機「ファルコン」の話を始めた。そして話題が音楽に移った時、医者の到着を知らせる連絡が入った。だが彼は「この会談は中国のエンペラー(帝王)でも邪魔はできない」と言って追い返してしまったのである。
「水をくれ」と言うのでミッキーがグラスを渡すと静かに飲み干した。と、その瞬間、頭が横に傾いた。エリエッテ夫人があわてて医者に連絡したが、カラヤンはそのまま帰らぬ人となった。偉大な音楽家との惜別。しかも目の前で。私は人間の命がいかにはかないかをその時に知った。あまりのショックで翌日、今度は自分が心筋梗塞になり、ケルンで倒れてしまった。
4.ハードとソフトの両輪作戦
「ソフトとハードは車の両輪」は盛田さんや私の持論だったが、映像分野ではそうではなかった。そのため、コロンビア映画を買収することで音楽と映画でこの分野は実を結んだが、ソニーをさらに飛躍させるにはもう一つの柱が必要だと思った。ハードとソフトの相乗効果が得られ、大きな市場に育つと考えたのが家庭用のビデオゲームである。
「プレイステーション」を発売したのは1994年12月、コロンビア映画の一時償却で3千億円の連結赤字決算を発表した翌月のことだ。当時のゲーム業界は任天堂の天下で、市場参入は社内でも私以外全員が反対していた。だが昨年の売上はハード・ソフト合わせ何と1兆円に達した。市販ソフトも含めると世界で2兆円を超える。わずか8年でこれだけ大きく成長した製品は過去に例がないと思う。それを育ててくれたのがソニー・コンピュータエンタテインメント社長の久多良木健君である。
プレイステーションの成功要因はまず記憶媒体にCDを使ったことだ。容量が大きく精細な画像を描けた。それにゲームソフトは売り時が肝心。カートリッジに比べ追加生産が簡単でコストも安かった。また、仕様を公開したため、多くのソフト会社が参入できた。
もう一つはゲームコントローラーだった。従来の平らな形でなく両手で握るグリップ型を採用した。デザイナーの後藤禎祐君が考案したもので、ソフト部隊が大反対したのを私が推し切った。飛行機の操縦桿同様、どんな姿勢でも持ちやすかったからだ。
大賀 典雄 (おおが のりお) | |
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生誕 | 1930年1月29日 |
出身地 | 日本 静岡県沼津市 |
死没 | 2011年4月23日(81歳没) |
学歴 | 東京芸術大学 ベルリン国立芸術大学 |
ジャンル | クラシック |
職業 | 実業家、声楽家 |
担当楽器 | バリトン |
大賀 典雄(おおが のりお、1930年1月29日 - 2011年4月23日)は、日本の実業家、声楽家(バリトン歌手)。位階は従三位。勲等は勲一等。
実業家として、CBS・ソニーレコード株式会社社長(初代)、ソニー商事株式会社社長、東京商工会議所副会頭、ソニー株式会社社長・最高経営責任者(初代)・会長、社団法人経済団体連合会副会長などを歴任した。財団法人東京フィルハーモニー交響楽団会長・理事長、東京文化会館館長を務めた。
東京芸術大学音楽学部声楽科を卒業し、西ドイツに留学してベルリン国立芸術大学音楽学部を卒業した声楽家でもあった。30代半ばだった1964年の時点では、バリトン歌手として活発に活動しており、実業家(ソニー商事株式会社取締役広報部長)と二足の草鞋を履いていた[注釈 1]。晩年には、経営者・財界人としての活動の傍ら、オーケストラを指揮することがたびたびあった。
妻はピアニストの松原緑。
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