掲載時肩書 | ANAHD相談役 |
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掲載期間 | 2017/04/01〜2017/04/30 |
出身地 | 中国満州 |
生年月日 | 1940/01/21 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 岡山朝日 |
入社 | ANA |
配偶者 | 看護師 |
主な仕事 | 補給部、ロッキード事件、人事部、'86国際便、NY支店長、SAネットワーク、9.11、LCC、 |
恩師・恩人 | 石川忠雄、岡崎嘉平太 |
人脈 | 藤原享一、若狭得治、野村吉二郎、 |
備考 |
1940年1月21日 – )は大連生まれ。日本の実業家である。全日本空輸(全日空)相談役。
氏はこの「履歴書」登場の全日空関係では岡崎嘉平太に次ぐ2人目である。JALも柳田誠二郎と松尾静磨の二人である。
1.労使交渉をまとめる
氏の登竜門は入社15年後の70年代後半80年代にかけての人事部時代だと思われる。この仕事の大役は労務交渉だった。83年当時、最新鋭のボーイングB767を導入したとき、それまでコックピットは機長、副操縦士、フライトエンジニア(FE)の3人体制だったのが、この機種ではFEを除く2人体制で運行が可能となった。当時FEは340人を超える大所帯だったため、組合側は二人体制に反発したので、労使交渉は困難を極めたが、これをまとめ上げた実績が次のステップにつながった。これにより、86年3月から念願の国際線運航が成田―グアム間で始まり、同年7月に米国のロサンジェルス、ワシントンそして翌87年4月に中国・北京、大連へと航路を拡げ、成長路線に乗ることができたからだ。
2.国際化路線
ナショナルフラッグだった「JALを追いつき追い越せ」を合言葉に、ANAの全社員が長年頑張ってきた。JALの経営破綻の敵失もあったが、氏が社長から会長になったとき、後任の山元社長が打ち出した「トリプル7」の経営目標がすごい。主力の国内線、国際線そして航空貨物の3分野を全てで売上を7千億円に拡大する計画だった。当時国際線はその三分の一、貨物に至っては十分の一の規模だった。その貨物部門を秘策で「沖縄貨物ハブ」構想で推進した。沖縄・那覇空港の24時間可動に着目し、ここをベースに深夜便を積極的に活用することで、アジアの各都市を航空貨物のネットワークで結んだ。深夜、成田やタイ・バンコク、中国・上海などから荷物を満載した貨物航空機を飛ばし、ここで荷物を仕分けした上で、夜明け前には各々の仕向け地に向かわせることで大成功した。
3.JALとの比較
ANAが大躍進した現在、JALとの会社比較は次のとおり。 (2016年8月現在)
1.企業規模(ほとんど互角となっている)
(1)ANA:資本金約3,187億円(ANAホールディングス株式会社)。単体従業員数約13,000人。2015年度連結売上約1兆7,911億円、営業利益1,364億円。
(2)JAL:資本金約3,558億円、単体従業員数約11,000人。2015年度連結売上約1兆3,366億円、営業利益約2,091億円。
2.路線(かつては「国際線のJAL」「国内線のANA」という位置づけがあった)
ANA:国内線123路線、国際線81路線(現在、路線数では優っている)
JAL:国内線117路線、国際線54路線(ヨーロッパ線が多く、利益率が高い)
4.スターアライアンスに加盟
氏は、ANAがスターアライアンスに加盟し、中国では20を超える路線を運行、北米、欧州とLCCも含めて世界各地にサービスのネットワークを築いてきたが、ANAはAll Nippon Airwayではなく、Asian National Airwayになり、アジアのANAと呼ばれるようになりたいと夢を語っていた。