大川博 おおかわ ひろし

映画演劇

掲載時肩書東映社長
掲載期間1959/02/24〜1959/03/16
出身地新潟県
生年月日1896/12/30
掲載回数21 回
執筆時年齢63 歳
最終学歴
中央大学
学歴その他岩倉鉄道
入社国鉄
配偶者記載なし
主な仕事教習所講師、東横電鉄、東京急行電鉄(東横・小田急・京浜、京王)→分離独立、東映、パリーグ会長、
恩師・恩人五島慶太
人脈堤康次郎、佐藤栄作、河合良成、柿沢徳太郎、石坂泰三、正力松太郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵、
備考優秀な経理マン
論評

1896年(明治29年)12月30日 – 1971年(昭和46年)8月17日)は新潟県生まれ。実業家、映画製作者、プロ野球オーナー。東映の事実上の創業者である。中央大学在学中に鉄道院に入る。鉄道省事務官時代は地方鉄道の経理知識に長け、計数管理では省内随一と言わしめた。1942年12月、鉄道省の先輩である五島慶太にヘッドハンティングされる形で東京急行電鉄に入社。次長、事業部長、専務をへて、1951年副社長に就任。五島の右腕として大いに辣腕をふるった。

1.鉄道大臣に講義
昭和15年(1940)10月20日、会社経理統制令が実施されて、日本の産業経済界は完全に戦時体制にはいった。私は鉄道省側を代表して、初めからこの法令の起案に参画していたところ、ある朝、私の家に鉄道大臣から電話がかかり「ぜひ来てほしい」と迎えの車まで差し向けられてきた。
 当時の鉄道大臣は小川郷太郎氏で、財政学の学者として知られた元京大教授、前に一度商工大臣もやった人である。小川さんが「君は会社経理統制令に詳しいと聞いたが、ひとつ、順序良く私に話してくれんか」と言われ、その場で私は約1時間ばかりウンチクを傾けた。
 一通り終わると「いや、ようくわかった。これで国会で十分答弁できるし、省内の書類もよく見られる。ご苦労。ご苦労」と大いに喜ばれた。これは私にとっていささか得意な思い出となっている。

2.五島慶太氏との縁
昭和17年(1942)12月、私は長年住み慣れた鉄道省を離れ、半生の役人生活に終始符を打って、東京急行電鉄に入社することになった。その機縁は毎年夏になると、年中行事として鉄道同志会の夏季講習会に、いつも決まって講師に招かれていた。昭和15年7月もそれが北海道の札幌で開催され、当時税制の大改革があったため私はそれをトピックに選び「改正税法と会計の処理」の演題で、約二時間にわたる講演をやった。このとき、五島さんも私鉄の大立物として、部課長数名を引き連れてこの講習会に出席しておられたのだった。
 私のどこがどうお気に召したか知らぬが、役所におけるかっての先輩で、当時東横電鉄の支配人だった小林清雄氏を通じ、私に東横電鉄に入るよう慫慂(しょうよう)があった。私には鉄道省でも活躍中だったので、ためらう気持ちがあった。その後、しばらくすると五島さんは鉄道省の鈴木次官や佐藤栄作局長にも同じ話をされたらしく、ある日佐藤局長からも電話があった。そしてある日、五島さんから直接私に電話があり、「それほどまでに申して下さるなら、お世話になります」ときっぱり応諾の返事をしたのだった。

3.在京私鉄4社(小田急、京浜、京王、東横)の分社独立
戦後、連合国の意向で政府は独占禁止法、過度経済力集中排除法などの施行をおこなった。戦前の昭和16年に統制経済のため私鉄を合併させていたのを、この機会に復元分割論が出てきたのであった。
 私は鉄道省の出身で、中立の立場にあると見られたのか臨時会社再建委員会の幹事長に任ぜられた。
そこで、私は一生一代の知恵を絞って、きわめて秘密裏に会社再建要綱を作った。その要綱は商法の規定によって分離することを前提とし、次のような基本原則に基づく詳細な具体案であった。
(1)交通経路の整備、(2)独立採算制の確立、(3)合併前の沿革の尊重
さて、ここで最も問題となるのは、特に独立採算制を確立するうえで、旧小田急系の帝都線(渋谷―吉祥寺間)を京王に付けなければ、京王の独立は難しいと判断したことである。そこで私は誰にも見せないうちにまず五島さんにご覧入れた。「君、これで小田急は承知するかね」「無論不満はあると思いますが、分離した会社が一本立ちできるようにしなければなりません」と答えた。すると「正しいことなら、必ず実現できよう」と応諾くだされた。この原案そのまま、昭和22年(1947)11月の臨時再建委員会の審議を経て、一言一句の修正もなく、即日開いた役員会でも承認可決された。

おおかわ ひろし

大川 博
生誕 (1896-12-30) 1896年12月30日
日本の旗 新潟県西蒲原郡加奈居村(現在の新潟市西蒲区
死没 (1971-08-17) 1971年8月17日(74歳没)
日本の旗 東京都
死因 肝硬変
墓地 多磨霊園
国籍 日本の旗 日本
職業 実業家
子供 大川毅(長男)
栄誉 勲二等瑞宝章(1967年)[1]
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大川 博(おおかわ ひろし、1896年明治29年〉12月30日 - 1971年昭和46年〉8月17日)は、日本の実業家、映画製作者、プロ野球オーナー東映初代社長[2][3][4][5]日本教育テレビ (NET) 初代会長、2代目社長。

  1. ^ 『読売新聞』夕刊 1971年8月17日 9頁
  2. ^ 沿革”. 東映. 2022年10月14日閲覧。
  3. ^ 渡邉大輔「初期東映動画における教育映画の位置 -主に国際化路線との関わりから」『演劇研究 : 演劇博物館紀要』第37巻、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、2014年3月、97-114頁、CRID 1050001202502246016hdl:2065/41680ISSN 0913-039XNAID 120005467160 
  4. ^ 木村 2020, p. 30.
  5. ^ 多田憲之 (2023年8月7日). “映画は死なず 実録的東映残俠伝 / 連載 おもしろきかな!わが映画人生”. コモ・レ・バ?. CONEX ECO-Friends. p. 2. 2023年11月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月3日閲覧。
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