掲載時肩書 | 東洋医学総合研究所長 |
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掲載期間 | 1975/06/28〜1975/07/26 |
出身地 | 高知県 |
生年月日 | 1900/02/25 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 熊本大学 |
学歴その他 | |
入社 | 武田病院 |
配偶者 | 病院事務員 |
主な仕事 | 「傷風論」、漢方医学の新研究、古医道、東洋医学協会、日本東洋医師会 |
恩師・恩人 | 暁烏 敏、権藤成卿、湯本求真 |
人脈 | 今村久馬、中山忠直、水野肇、荒木性次、佐藤省吾、木村長久、横山大観、五代目菊五郎、牧野富太郎、津村重舎、武見太郎 |
備考 | 病気でなく病人を治す(座右の銘) |
明治33年(1900年)2月25日 – 昭和55年(1980年)10月15日)は高知県生まれ。昭和期の漢方復権に尽力した代表的な日本の医師。東洋医学の発展に貢献した業績により1978年に日本医師会より最高優功賞を日本で初めて受賞。漢方に傾倒したきっかけは、昭和2年(1927年)刊行の『漢方医学の新研究』(中山忠直)であった。本書には後に師事する湯本求真の他、当時の漢方医家として木村博昭、中野康章らのことが 紹介されていた。さらに、湯本求真の『皇漢医学』が昭和2年(1927年)から3年(1928年)にかけて順次刊行され、敬節はこれを熱心に熟読した。
1.「反対学を学べ」・・・権藤成卿先生の訓え
権藤先生は大正(1913)から昭和初期(1926)を中心に活躍された方である。先生は、漢方入門間もない私に「反対学を学べ」ということを言われた。その頃の私は漢方以外脳裏になく、血気にはやって異説、他流を徹底的に批判、攻撃してやむところがなかった。そんなある日「お前には排他癖がある」「反対学を学べ」と諭された。私はギクリとした。唯我独尊ではいけない。漢方だけを正しいとする思想は結局、西洋医学のみを正しいとする西洋医学者と何ら変わるところがない。
私は以後、漢方とその背景をなす古代中国人の世界観を学んだのは勿論、反対学としての西洋医学研究にも心を留めるように努めてきた。今日、近代西洋文明の限界が至る所で語られている。自然征服を目標として発展し、人の力によって自然は征服できると信じた文明は大きな反省を迫まれている。人間も自然の一員であることを前提とした東洋文明・医学は「反対学」である。近年、その反対学が注目されている。
2.病気でなく病人を治す・・・暁烏 敏先生の訓え
暁烏先生は、大正年間に活躍された真宗派の仏教思想家であった。全国を遊説行脚されているとき、我々の招きに応じて熊本でも講演してくださった。ある時、先生が熊本医専の学校標本室をのぞいた。アルコール漬けになった眼や手の標本を我々が説明して回ったとき、「こんなものは眼じゃない。手じゃないよ」、突然先生が言った。
「眼は体にちゃんとついていて、物を見るから眼なんだ。こんなものを見て研究してたんじゃ、医者はダメだ。医者は生きてピンピンしているものを相手にすべきだ。こんなものは“物質“だよ。
この考え方は正しく漢方医学の根幹に触れていた。漢方は病人を全体として治療する。決して病気だけ、病巣だけを治せばいいとは考えない。医者とは「病気ではなく病人を治す」ことが一番大切と肝に銘じた。
3.私の有名患者さんの健康法(横山大観画伯と牧野富太郎博士)
横山画伯:終戦直後、伊豆山の別荘へ伺ったところ、ナスの絵を描いておられる。「先生、富士さんは?」。「富士はダメだ。富士にはアメリカの旗が翻っている。あんな山は描けん」。先生は非常な小食で、ご飯はいくらも食べない。いつも「米のエキス」だった。先生は、例えばみかんを皮ごと食べられた。これは食物を全体として食べるという漢方の考え方に通じている。トロとか切り身でなく小魚を丸ごと食べる方が良いというような意味である。
牧野博士:植物学の権威である先生は、私の郷土の大先輩であり、本草学の面からも先生の所へ伺った。先生は薬が大嫌いで、私が持参しても、虫がついたり、カビが生えたりでほとんど飲まれていなかった。「土佐のイゴッソー」そのものの頑固さで、私がいくら、歳をとられてからはあまり肉などを食べないように、と注意しても一向に聞いてくれない。腹がすけば日に4回も食事する。ともあれ、先生が90歳を越す長寿だったのは一にかかってその精神力だったと思う。
大塚 敬節 | |
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1975年頃 | |
生誕 | 1900年2月25日 高知県高知市 |
死没 | 1980年10月15日(80歳没) 東京都新宿区 |
居住 | 日本 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 東洋医学、漢方医学 |
研究機関 | 北里大学東洋医学総合研究所、修琴堂大塚医院 |
出身校 | 熊本県立医学専門学校 (現熊本大学医学部) |
博士課程 指導教員 | 湯本求真 |
主な業績 | 漢方医学復興、 日本東洋医学会設立、 七物降下湯開発 |
主な受賞歴 | 日本医師会最高優功賞 |
プロジェクト:人物伝 |
大塚 敬節(おおつか けいせつ、おおつか よしのり[1]、明治33年〈1900年〉2月25日 - 昭和55年〈1980年〉10月15日)とは、昭和期の漢方復権に尽力した代表的な日本の医師。東洋医学の発展に貢献した業績により1978年に日本医師会より最高優功賞を日本で初めて受賞[2][3]。号は敬節(けいせつ)[3][4]。