掲載時肩書 | ホリプロ創業者 |
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掲載期間 | 2021/02/01〜2021/02/28 |
出身地 | 神奈川県 |
生年月日 | 1932/10/15 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 88 歳 |
最終学歴 | 明治大学 |
学歴その他 | |
入社 | 文化放送 |
配偶者 | 音楽仲間 |
主な仕事 | 学生バンド、ワゴンマスター、自前バンド、P・アンカ&N・セダカ、スター誕生、ミュージカル、演劇、株式公開 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 井原高忠、小坂一也、田邊昭知、守屋浩、ハナ肇、浜口庫之助、阿久悠、井上ひさし、蜷川幸雄 |
備考 | ナベプロは好敵手 |
氏の功績は、芸能プロダクションという社会的認知度の低さを、松竹や東宝、吉本興業と同じような音楽、映画、演劇などをおこなう企業イメージに高めたことだと思う。芸能界の裏面史、発展史を語ってくれた。その中から主なものを抽出、要約する。
1.若さの勢いがあればこそできた
若さの勢いには、すごい力がる。私がやってこられたのは、実に若気の至りのおかげだった。88歳になった今、そう実感する。ホリプロをつくったとき28歳、最初は所属タレントも数えるほどだった。それが、1960年の創業時、守屋浩がヒットを飛ばし、次いで舟木一夫がスターにのぼりつめた。そして和田アキ子、森昌子、山口百恵、石川さゆり、榊原郁恵を世に送りだせたのも、若さの勢いだ。
2.ポール・アンカとニール・セダカの印象
1958年当時、外国からくるタレントはマーケットバリューがあった。中でもポール・アンカは「ダイアナ」や「君はわが運命」で大ヒットを飛ばし、日本のバンドも競ってコピーしていた。彼を招いたが、一言でいうと、17歳のガキッチョだった。列車で移動するとき、一緒になった少女と親密になったりしていた。屈託のない背伸びした男の子だった。楽屋でスウング・ウェストの浴衣を着て、喜んでいた。
そのポールと並んで爆発的人気だったのが、「恋の片道切符」「おお!キャロル」をヒットさせたニール・セダカだった。彼はポールと対照的に、ジュリアード音楽院を出たジェントルマンだった。大阪公演では、突然打合せのない曲を弾き始めた。あまりに静かな客だからクラシックを弾いたらしい。
3.山口百恵の思い出
百恵は歌はさほどうまくなかった。しかし、東宝映画「伊豆の踊子」が大ヒットした。百恵は映像で演技を学び、歌の表現力を身につけた。「伊豆の踊子」とテレビドラマ「赤いシリーズ」によって、三浦友和とのゴーデンコンビもできる。けれど79年の暮れもおしつまったころ「相談がある」と言われ、「友和さんと結婚します。結婚を機に引退したいと思います」と。これにはびっくり仰天した。
結婚はありうると思っていた。まさか引退とは。何しろまだ二十歳だ。これからだと思っていた。それでも慰留しなかった。百恵は母子家庭で育った。母親が妹とふたり、苦労して育てる姿を見ている。子供のころ肩たたき券をプレゼントしたりし、いつかお母さんを楽にしてあげたいという思いが強かった。父親のことは「あの人」と呼んでいた。幼いころの家庭と対極にあるものを作りたかったのだ。
創業20周年10月15日に引退、およそ一月のち結婚式と披露宴。私は父親となってバージンロードを歩いた。美しい花嫁だった。
4.株式公開の功罪
創業時の芸能プロダクションの業界イメ-ジは悪かった。芸能ビジネスを文化全般に広げ人間産業にするには、株式を公開して社会に認知もらう必要があると思った。そしていろいろな苦労の末、2002年9月に東証一部に上場することができた。これで芸能プロの社会的認知を向上させることができたが、資金のニーズがそれほどないのに上場維持コストがかかりすぎた。そこで自分が会社にいる間にMBO(経営陣が参加する買収)をすることにし、12年に実施した。
ほり たけお 堀 威夫 | |
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文化功労者顕彰に際して 公表された肖像写真 | |
生誕 | 1932年10月15日(92歳) 神奈川県横浜市 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 浅野学園高等学校 (現:浅野高等学校) →明治大学商学部 |
職業 | 芸能プロモーター 実業家 |
配偶者 | 堀百合子(妻)[1][2] |
子供 | 堀一貴(長男) 堀義貴(二男) |
栄誉 | 大英帝国勲章(2003年) 文化功労者(2021年)[3] |
堀 威夫(ほり たけお、1932年(昭和7年)10月15日 - )は、日本の芸能プロモーター、実業家。ホリプロ創業者。宇都宮ビジネス電子専門学校名誉顧問、宇都宮アート&スポーツ専門学校名誉顧問。社団法人日本音楽事業者協会理事長なども歴任した。