掲載時肩書 | 古美術商「不言堂」 |
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掲載期間 | 1996/12/01〜1996/12/31 |
出身地 | 神奈川県 |
生年月日 | 1923/08/31 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | 乾物商卸 |
配偶者 | 見合い |
主な仕事 | 古着商、骨董闇屋、美術商、古陶磁、1.8億大壷(落札)、東洋博物館に殷周青銅器寄贈、 |
恩師・恩人 | 小塚孫次郎、野口淑太郎、横井周三 |
人脈 | 広田不孤斎、佐野学、石黒孝次郎、清川清寿、安宅英一翁、水野清一、樋口隆康、小山富士夫、江上波夫、円城寺次郎 |
備考 | 落札前の緊張「眠れず、小 水赤、硬直」 |
1923年8月31―2016年8月15日)神奈川県生まれ。古美術店「不言堂」創設者。1947年東京に店を構える。古陶磁、中国青銅器などが中心。古美術品の蒐集家としても著名。1968年東京国立博物館東洋館新設に際し、饕餮文〓(ほう)など、殷周青銅器10点を母・キクの名で寄贈。1972年ロンドンのオークション・クリスティーズの競売で中国元時代の青花釉裏紅大壷を当時の世界最高額で落札、国際美術市場で中国陶磁の世界的高揚の基礎を築き一躍有名になる。2002年奈良国立博物館に380余点の中国古代青銅器を寄贈、名品展「中国古代青銅器“坂本コレクション”」の常設展示施設としてオープンした。
1.古美術の勉強
古美術のある交換会に、美しい象眼入りの高麗青磁の鉢が出た。それを競い合って落札した。戦前の日本橋「五葉堂」のご主人、横井周三氏にお見せしたら喜んでもらえるだろうと思い、お見せした。
横井さんは、箱のふたを開けた途端、「いかん」と小さな声を漏らした。私はびっくりした。横井さんは静かに説明してくれた。「大変良くできているが、実は大正初期に作った鉢。商売人でも専門でないと良いと思うのが当たり前。坂本さん、よく見なさい。象眼の模様は美しいが、個々にみると力が弱く自然さがない」。
しかし私にはちっともわからない。目利きになるのは大変なことだとため息ばかり。横井さんにはこの後、様々な古陶磁の見分け方を教わった。また東京古美術界の大立者、「平山堂」高橋清作翁からは、「坂本さん、古美術品は大きさよりも“使い道”や“図柄”の良し悪し。下がった藤は、株や縁起を担ぐ人は喜ばぬので、買わないでしょう」と教えてくれた。いろいろ教えていただいたので発奮し、古書店へ行っては昔の売り立て目録を買い求めて勉強した。
2.青磁の奇縁
私は古陶磁の中では青磁が一番好きで、中でも中国の皇帝が玉にならって造らせたという官窯青磁にあこがれていた。交換会「三楽会」出品の、この「耳付花入れ」は、貫入といい姿といい、まさに官窯青磁と睨んで、買うハラを決めた。始めの「発句値」が「5万円」。続いて「10万」「15万」「25万」と続いた。ところが、誰かが倍の「50万!」と飛んだ。これは、さらに飛び離れてとどめを差さないと、誰かに取られると、とっさにひらめき無我夢中で倍の「百万円!」と飛び込んだ。会場が一瞬、静かになり、私が落札した。
翌日、石黒孝次郎さんご夫妻が、噂を聞いて花入れを見に来られた。外箱を見ているうちに「どうも、おじいさまの字のようだ。間違いない」と独り言。石黒さんのおじいさんは、昔、貴族院議員、日本赤十字社社長などを歴任された石黒忠悳(ただのり)その人で、明治、大正の茶の湯の大先達だった。
石黒さんは、一度、母に見せたいと言われた。そしてこの花入れを見たお母さんは、この外箱の書は間違いなく父のもの、若いころから一番大事にしていた花生だと言われた。おじいさんが、明治10年〈1877〉に奈良の東大寺へ行ったおりに譲り受けた品で、四聖坊ゆかりのものという。生前親しかった大倉喜八郎さんのところに、おじいさんが形見として差し上げ、巡り巡って益田鈍翁に渡り今日、孝次郎の親友の坂本さんの手に入り、こうして拝見できるのも稀有(けう)なこと、と大喜びしていただいた。
3.大珍品・清花釉裏紅(せいかゆうりこう)大壺を落札
昭和47年〈1972〉の初夏、ロンドンのオークション会社から1冊のカタログが送られてきた。ページをめくると、中国・元時代の「清花釉裏紅大壺」の写真が載っていた。大名品であった。
高さ34cmという堂々たる大作で、作行きが極めて優れ、清花と釉裏紅の二つの手法を合体させた珍品である。釉裏紅とは、酸化コバルトの代わりに辰砂(しんしゃ)で絵付けしたもので紅色に発色する。しかも、胴の四方には菱花形のレース状の窓をこしらえ、中に唐草風の花卉(かき)文を透かし彫り、そこを釉裏紅で飾っている。その発色が極めて鮮やかな紅色をしていた。元時代製陶技術の極致を示した優品だった。
その写真を見つめながら、私は抑えがたいものを感じ、密かに心に期するようになった。この壺を自ら競り落とし、我が腕に抱いて日本に持ち帰ろうと。日本の一介の古美術商の私だが、その道の世界最高の品物を扱いたいと願う心に変わりはない。このチャンスこそ千載一遇と思うと、体中に緊張がみなぎり、と同時にいくらかの迷いと不安が去来した。
先立つものは資金だった。余裕があるわけではなく、ある品物は全部売り払い、いざ鎌倉の時は日本橋の店を手放してもと密かに決意した。何日も寝られぬ日が続いた。ロンドンへの出発の前夜、6人いた店員を集め、各自の予想落札価格の入札をさせた。最高値は1億3千万円で1億円近くが多かった。
ロンドンはクリスティーズのオークション当日、必殺の気合を込めて会場へ出かけた。いよいよ競売。会場で競り値に集中していたら、どんどん高くなり、はや日本円にして1億円を超え、上がり始めた。競りの参加者は絞られ、1億5千万近くになって残るはスウェーデン王室御用の古美術商、ピーター・ボン氏と二人の日本美術商であった。最終段階で危機一髪、私は立ち上がり、最後のサインを発した。3,4回、最終値を叫んで、オークションの木づちが響いた。数秒だったろうがとても長く感じた。シーンと静まり返った静寂を破るかのように、会場から一斉に拍手が沸いた。
中国陶磁史上初めての最高値、約1億8千万円を記録して、「清花釉裏紅大壺」は私の手に落ちた。ボン氏が素早く駆け寄り、私の手を握って祝福してくださった。私は緊張の極限にあって、激しい腹痛に襲われ、五臓六腑が硬直して、全身棒のようになった。近寄ってきた報道陣を避け、急遽ホテルに戻り、ブランディ―を一気に飲んだ。ようやく心身ともほぐれたようになったが、苦しかった。
氏は’16年8月15日92歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は96年12月の72歳のときであった。この「履歴書」には経済人や政治家、芸術家などの登場が多いが、古美術商の登場は初めてで珍しがられた。
氏は1972年、世界的に有名なロンドンの骨董美術商、クリスティーズの競売で、14世紀(中国・元時代)の「青花釉裏紅大壷」を約1億8千万円で競り落とした。当時の東洋陶磁器の世界最高価格だったため、その後、国際美術市場で中国の古陶磁器への評価を一気に高めることとなった。その時を氏は次のように書いている。
「落札の瞬間、私は極度の緊張で激しい腹痛にみまわれた。寄ってきた報道陣を避け、急いでホテルに戻り、一気にブランデーを飲んだ。ようやく全身がほぐれてくるのを覚えた・・
私たちの商いは、ボクシングに似ている。一発大きなのを狙っていては駄目である。小さなジャブを絶えず出していると、やがて思わぬ大きなヒットを掘り出すことが出来るのだ。たゆまぬ努力の中に、カウンターパンチのチャンスができてくる。」
美術品に関する鑑賞眼の磨き、多くの失敗、鑑識眼のある華族の温かい助言など多くの試練を潜って古美術商の大家となるが、組織管理、財務管理の経営者と言うよりは美術品鑑定士、勝負師の姿だった。