掲載時肩書 | 埼玉県知事 |
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掲載期間 | 1998/04/01〜1998/04/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1926/05/31 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 中央大学 |
学歴その他 | 中学校 |
入社 | 志のだ寿司見習い |
配偶者 | 上原伯父孫娘 |
主な仕事 | 大正製薬、正吉秘書、埼玉県議、参議員、福田派、参院議長、畑知事6選阻止、埼玉知事、 |
恩師・恩人 | 上原正吉夫妻 |
人脈 | 実弟昭二(大正社長)、荒船清十郎、福永健司、亀井静香、青嵐会(渡辺・中川・石原・浜田・加藤)、山口敏夫、大平3男明嫁(昭二次女) |
備考 | 叔母:上原 正吉妻 |
1926年(大正15年)5月31日 – 2008年(平成20年)10月5日)は東京生まれ。政治家。参議院議員(5期)、参議院議長(第17・18代)、環境庁長官、埼玉県知事(第54・55・56代)、埼玉県議会議員(2期)、自由民主党参議院議員会長を歴任。三権の長経験者として県内外に存在感を示し、前任者畑和の長期県政(5期20年)により弛緩した県庁の雰囲気を改め、県民サービスに努めた。しかしそれ以上に非常に権力意識が強く、職員に対し高圧的で命令口調であったと言われる。
1.恩人・上原正吉から人生訓
1950年、叔母(小枝)の主人上原正吉が参議院議員に当選した。同時に私は議員秘書になった。親身になって結婚や就職の世話をする。夜の宴会にも必ず顔を出す。時には宴席をはしごする。酒は飲める方ではないが、返杯を断わるわけにはいかない。無理して飲むから、夜遅く家に帰ると、決まったように吐いた。
秘書生活を通じて正吉・小枝夫妻にはいろいろなことを教えられた。「自分がいるために迷惑を被る人がいるようなことがあってはならない」「お金の貸し借りはいけない。貸すくらいならあげてしまえ」。また、けじめにも厳しかった。たとえ身内でも、甘えは一切許してくれなかった。あいまいな点があると、とことん追求され、逃げ道を与えてくれない。嘘は必ずばれる」とよく言われた。
2.三島由紀夫事件に遭遇
1970年11月25日の午後、私は南極観測船「ふじ」を見送りに東京港晴海埠頭にいた。「土屋次官、すぐお戻りください」。ただならぬ様子の緊急連絡が入った。作家三島由紀夫が「楯の会」会員4人と市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に押し入ったという。三島らは日本刀を振りかざして乱入、自衛隊八人がケガをし、益田兼利東部方面総監は椅子に縛り付けられた。三島は総監室のバルコニーからこぶしを振り上げて「憲法改正に決起せよ」と自衛隊員にアジ演説をぶった。部屋に戻った三島は楯の会の学生会長、森田必勝の介錯で割腹自殺し、森田も自決した。
私は急いで六本木の防衛庁に戻ると、事態は一応収束していた。
3.消費税法案・採決時の参議院議長として
1988年12月、消費税法案をめぐる参議院本会議は、「すみやかにご投票願います」と呼びかけたものの後々の語り草となる社会党の牛歩戦術により、24時間23分の徹夜審議となった。この間、議長である私は合計244回、すみやかな投票を催促した。
消費税法案は予想通り野党の強い反対を受けた。衆議院は特別委員会、本会議とも強行採決され参議院に送られてきた。私は議長になった時、参議院の権威を守るため、一党一派に偏らない幅広い観点から議論を尽くしたいと思った。まして、消費税導入という歴史的な重要法案である。強行採決はしないと決意。
しかし、参議院も特別委員会は強行採決となり、野党は一段と硬化した。私は各党の責任者に「審議に応じてもらいたい」と、ひたすら協力を要請した。何とか話がまとまったと思って開会のベルを鳴らしたところ、社会党の野田哲国会対策委員長ら幹部が「何でベルを鳴らした」と猛烈な抗議に来た。この結果、社会党をはじめ野党が牛歩戦術で抵抗をアピールするとは思わなかった。みんな列をなしているだけで、なかなか投票箱まで進まない。自民党からは「与党票で過半数になっているのだから、投票箱を閉鎖して、終りにしろ」「腰抜け議長」と怒鳴られ続けた。
途中で休憩したら、今度はいつ開会できるかわからない。「こうなりゃ、とことん我慢」と覚悟した。途中、副議長の瀬谷英行さんと3時間交代しただけで、議長席に座り続けた。
ようやく終わって議長席を降りたら、竹下登首相が寄って来て私と抱き合おうとするのが分かった。みんな一種の興奮状態にあった。中立立場の議長が提案責任者と喜び合うのはおかしいので、私はとっさに肩をずらした。
土屋 義彦 つちや よしひこ | |
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防衛政務次官着任時の土屋義彦(1970年1月20日) | |
生年月日 | 1926年5月31日 |
出生地 | 日本 茨城県潮来市 |
没年月日 | 2008年10月5日(82歳没) |
死没地 | 日本 埼玉県春日部市 |
出身校 | 中央大学商学部 |
前職 | 上原正吉参議院議員秘書 |
所属政党 | (自由民主党→) 無所属 |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 参議院永年在職議員 埼玉県春日部市名誉市民 商学士 |
配偶者 | 土屋栞(上原金一の娘) |
子女 | 市川桃子(長女) 土屋品子(二女、衆議院議員) |
親族 | 土屋仁作(祖父、高田町会議員・稲梓村会議員) 上原正吉(義理の叔父(叔母の夫)、参議院議員) 鈴木三郎(叔父(父の弟)、静岡県議会議員) |
第17-18代 参議院議長 | |
在任期間 | 1988年9月30日 - 1991年10月4日 |
天皇 | 昭和天皇 上皇(平成の天皇) |
第11代 環境庁長官 | |
内閣 | 第2次大平内閣 |
在任期間 | 1979年11月9日 - 1980年7月17日 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1992年7月13日 - 2003年7月18日 |
選挙区 | 埼玉県選挙区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 1965年7月5日 - 1992年6月1日 |
選挙区 | 東第8区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1959年4月23日 - 1965年6月10日 |
その他の職歴 | |
自由民主党最高顧問 総裁:宮澤喜一 (1991年 - 1992年) | |
第14代 自由民主党参議院議員会長 総裁:中曽根康弘、竹下登 (1985年 - 1988年) |
土屋 義彦(つちや よしひこ、1926年〈大正15年〉5月31日 - 2008年〈平成20年〉10月5日)は、日本の政治家。
参議院議員(5期)、参議院議長(第17・18代)[1]、環境庁長官、埼玉県知事(第54・55・56代)、埼玉県議会議員(2期)[2]、自由民主党参議院議員会長を歴任。