掲載時肩書 | 衆議院議員 |
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掲載期間 | 1992/09/01〜1992/09/30 |
出身地 | 兵庫県 |
生年月日 | 1928/11/30 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 64 歳 |
最終学歴 | 同志社大学 |
学歴その他 | 京都女子専、同志社大学院 |
入社 | 同校非常勤講師 |
配偶者 | |
主な仕事 | 神戸市人事委員、議員(41歳)、公害・空港問題、委員長、 |
恩師・恩人 | 田畑忍教授 |
人脈 | 末川博、大西良慶、成田知己、横路孝弘(議員同期)、石橋政嗣、 |
備考 | 父:医者 |
1928年11月30日 – 2014年9月20日 兵庫県生まれ。
政治家、法学者。衆議院議員(12期)、日本社会党委員長(第10代)、衆議院議長(第68代)、社会民主党党首(第2代)などを歴任した。 日本における女性初の衆議院議長、政党党首である。
趣味はパチンコとカラオケ。 選択的夫婦別姓制度導入を支持していた。その理由として、「結婚をするほとんどの女性が改姓をしている現状は、太平洋戦争後、新たに憲法が制定され、民法の家族編の大改正で家制度がなくなったとはいえ、未だに男性血統重視の『イエ』意識が根強くあることの表れ」とも述べている。
政治家として脚光を浴びたのは86年の衆参同時選挙で社会党が大敗し、党再生の期待を担って委員長に就いてからだった。89年の参院選では消費税反対に加え、女性候補を積極擁立して「マドンナ旋風」を巻き起こした。非自民連立政権が発足した93年には女性初の衆議院議長に就任する。社会党から民社党に名称を変更した96年には村山富市元首相から党首を引き継いだが、2003年の衆院選で惨敗して引責辞任をした。
彼女のカラオケ18番は「マイ・ウエイ」だった。抜群の声量で聴く者を魅了し、その名のごとく、「我が道をゆく」ことを政治信条とした。
1.女性採用差別への反撃
私は同志社大学で講師をしながら、政令都市神戸市の人事委員会の委員にも選ばれていた。あるとき、市職員の採用試験にも立ちあった。女性とみると必ずといってよいほど、他の試験委員から「結婚してもやめませんか」、「出産したら?」という質問が出る。女性の場合、優秀な人材を期待しても、結婚などで辞められたら困るから、というのである。
カチンときた私は、ある男性の受験者に、「あなた、結婚してもやめませんか」と聞いてみた。本人はキョトンとし、試験委員も皆、一様に変な顔になった。大体、男性は一般職のすべてに応募できるのに、女性の職種が限定されているのはおかしい。職場でもまじめで陰ひなたのない女性をもっと評価すべきだと食い下がり、二人の女性応募者を認めさせた。今でも元気で働いておられると思う。
2.衆議院選挙に出馬
昭和44年(1969)大学の講義を終えて、三宮に向かう電車の中で、何気なく隣の人が読んでいる新聞に目をやって、びっくりした。「立候補決意か」という見出しのわきに、私の名前が出ているではないか。事実無根の記事であるとはいえ、そうなっては公正であるべき人事委員を続ける訳にはゆかない。その晩、私は人事委員長あての辞表を書いた。
翌日午前中、辞表を片手に人事委員会を訪ねると、宮崎辰雄助役(後神戸市長)に取り次がれた。原口市長がドイツに出張中で市長代行をしていた宮崎さんは、私の説明を聞いて、いつもと同じような調子で「辞表は受け取りませんよ。立候補しないんでしょ。わかっています」とこともなげに言われた。ところが続けて、「選挙は当選する可能性があってこそ出るもので、地盤も看板もなく選挙に出るなんてお話にならない」と繰り返された。
聴いているうちに、私はだんだんムラムラしてきた。「よし、負けてもともと。ないならなしでぶつかってみよう」となった。「宮崎さん!私、いま決心しました。辞表を受け取ってください!」、「まさか、本当ですか?」、「本当です」。唖然とされる助役をあとに、私は部屋に入って来た時と出ていくときはまるで違っていた。
3.あだ名は質問魔
昭和45年(1970)3月19日の初質問を皮切りに、この年、私は地行委で5回、産特委で9回、公害基本法の連合審査1回、本会議2回の合計17回、質問、討論を行っている。以来、折あるごとに質問に立ち、いつの間にか”質問魔“のあだ名をちょうだいしていた。市川房枝さんが創刊された「婦人展望」という雑誌が、国会終了のたびに女性議員の活動調査を発表しているが、私の発言回数は他の人たちを超えてトップになることが多かったのである。
4.周恩来総理とパンダ外交
1972年1月、当選1回の社会党同期の議員12人は、全員そろって招待を受け、初めて中国を訪問した。北京から延安へ、さらに零下20度を超える瀋陽へ、約1か月の旅程はめまぐるしいものであった。
周恩来総理にお目にかかったのは、瀋陽から北京へ帰り、帰国を2,3日後にひかえた時である。
あきらめかけていた周総理との会見が、その日の夜、突然どうぞ人民大会堂へお出かけくださいということになった。会議室に入った時は、夜も11時ごろであった。周総理は私たち一同が席に着くや否や、私の方を見て、「日本の国会に婦人議員は何人いますか」と問われた。予期しなかったことに慌てて私が答えると、周総理はその少ないのに驚いたふうで、平和のために闘うのは婦人で、未来は青年と婦人のためにある、言うようなことをいわれた。
私の方からは「パンダが中国から来ることになれば、日本の子供たちにとってこんなうれしいことはない」という話をした。これに対して周総理は、「日中国交回復が実現したとき、それを記念して考えましょう」と答えられた。短い時間ではあったが、精悍と柔和が同居している感じのする周総理の印象は強く残った。
氏は、’14年9月26日に85歳で亡くなった。「履歴書」の登場は1992年の9月で年齢は63歳のときであった。政治家として脚光を浴びたのは86年の衆参同時選挙で社会党が大敗し、党再生の期待を担って委員長に就いてからだった。
89年の参院選では消費税反対に加え、女性候補を積極擁立して「マドンナ旋風」を巻き起こした。非自民連立政権が発足した93年には女性初の衆議院議長に就任する。社会党から民社党に名称を変更した96年には村山富市元首相から党首を引き継いだが、2003年の衆院選で惨敗して引責辞任をした。
それゆえ、92年に「履歴書」を執筆した際には、その後に彼女が活躍した激動の時代を書いてもらうことができなかったのは、残念である。
同じことが言えるのは、田中角栄氏も大平正芳氏も幹事長時代であったため、首相引退後に政界の裏面史を書いてくれていない。福田赳夫氏や中曽根康弘氏は首相時代のことを得々と書いている。好対照である。
彼女のカラオケ18番は「マイ・ウエイ」だった。抜群の声量で聴く者を魅了し、その名のごとく、「我が道をゆく」ことを政治信条とした。「北朝鮮の日本人拉致は全くない。日本の被害妄想だ」との彼女の言明は冥途でどう釈明するのだろうか。
土井 たか子 (土井 多賀子) どい たかこ | |
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2005年7月撮影 (76歳) | |
生年月日 | 1928年11月30日 |
出生地 | 日本 兵庫県神戸市林田区(現・長田区) |
没年月日 | 2014年9月20日(85歳没) |
出身校 | 旧制京都女子専門学校 同志社大学法学部 同志社大学大学院 |
前職 | 同志社大学講師 |
所属政党 | (日本社会党→) 社会民主党 |
称号 | 法学修士(同志社大学) |
配偶者 | なし |
第68代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1993年8月6日 - 1996年9月27日 |
天皇 | 明仁 |
選挙区 | (旧兵庫2区→) (兵庫7区→) 比例近畿ブロック |
当選回数 | 12回 |
在任期間 | 1969年12月27日 - 2005年8月8日 |
その他の職歴 | |
第2代 社会民主党党首 (1996年9月28日 - 2003年11月15日) | |
第10代 日本社会党委員長 (1986年9月8日 - 1991年7月31日) |
土井 たか子(本名:土井 多賀子、どい たかこ、1928年〈昭和3年〉11月30日 - 2014年〈平成26年〉9月20日)は、日本の政治家。
衆議院議員(12期)、日本社会党委員長(第10代)、衆議院議長(第68代)、社会民主党党首(第2代)を歴任し、日本初の女性の衆議院議長、日本初の女性の政党党首を務めた。