掲載時肩書 | 作曲家 |
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掲載期間 | 1989/04/01〜1989/04/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1924/04/07 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 65 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | 東京音楽 |
入社 | NHK専属作曲 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 陸軍楽隊、「花の街」「ぞうさん」、オペラ「夕鶴」、欧州オペラ勉強、「3人の会」、「パイプの煙」「駅コン」 |
恩師・恩人 | 山田耕筰、下総完一 |
人脈 | 福井直俊、石井好子、園田高弘、江藤俊哉、芥川也寸志(無二)、黛敏郎、四家文子、砂原美智子、岡野喜一郎、近衛秀麿 |
備考 | 祖父・琢磨、父:伊能(東大教授) |
1924年4月7日 – 2001年5月17日)は東京生まれ。作曲家、エッセイスト。実業家、学者、政治家であった男爵・團伊能の子として、東京・四谷で生まれ、原宿(現:渋谷区神宮前)で育った。作曲家としてはオペラ、交響曲、歌曲などのいわゆるクラシック音楽のほか、童謡、映画音楽、放送音楽と幅広いジャンルの作曲を手がけた。愛煙家で、パイプを好んだ。1950年代、イギリスに留学していた團は、英語の勉強のために、当時ベストセラーだった「野生のエルザ」をはじめ、いくつかの書物の翻訳もしていた。
1.家憲-世襲はご法度-
祖父・團琢磨は三井合名会社の理事長であり、日本工業俱楽部理事長、日本経済聯盟会長であった。この祖父ほど僕の一生に影響を与えた人物はいない。
先ずその第一は、祖父が世襲を認めなかったことである。従って、僕の家である父の時代から自分の将来は自分が責任を持ち、職業も無論自分で決めるのが家憲であった。祖父の理科的な頭脳を受け継がなかった父の伊能は東京帝国大学で美術史を専攻した後、米国に渡り、ハーバード大学で、また英国に渡りロンドン大学で、またその上仏国にわたりリヨン大学で学んで東京帝国大学で美術史の教鞭を執った。
理科的だった叔父・勝磨は東大で生物学を学ぶと、米国に渡りペンシルベニア大学で発生学を専攻して、帰国後は母校で発生学を講じた。僕の家では、女性は殆ど実業界に嫁いだが、男はそれぞれの道を歩くのが定めだった。僕が作曲の道に進んだのも、僕の息子がプレ・ルネッサンス研究で教鞭をとり、他の息子が建築家として働くのも、家業を認めなかった祖父の厳しさが脈々と生きていると思う。
笑い話になるが、息子の音楽の点が悪いため、小学校の先生が僕と家内を呼んだことがあった。「お宅では音楽教育をどう思っていらっしゃるのですか」。すぐ傍で先生の話を聞いていた息子が、「先生、うちじゃ音楽は間に合っています」と言った。先生は笑い出して、この話はそのままになった。
2.進路を決めた山田耕筰先生の一言
父親は昭和14年(1939)は時代も時代だし、才能も判らないから友人の山田先生に、「連れて行った際は息子の作曲志望に反対」してくれるよう頼んだそうである。それに対して先生は「ようがす」と言ってくれた。
ところが、先生のお宅に行くと、すぐ玄関脇の応接間に通された。そして「坊や、こっちに来なさい」と僕は奥の座敷に続いていた縁側に連れていき、梅雨の晴れ間の薄日を僕に当てるように、僕の顔を両手で挟んで、じっと見下ろした。恐ろしい眼だった。仕方なく、僕も先生の眼を見つめていた。突然、先生は、僕とも、父にとも無く、然し、はっきりした声で言われた。「この子には作曲をやらせましょう」。父はおろおろしていた。先生はその時いわれた。やるからには最もオーソドックスに、そして真面目に、・・それは今の日本では上野の音楽学校に入ることだ。学校に入って、実作ができるようになったら、僕が作品を見てあげよう。
面白いどころではない。先生の一言で僕の将来は決まったのである。
3.オペラ「夕鶴」の作曲
オペラは音楽作品であって、音楽劇、ミュージカルの類では全くないとオペラに詳しい太田黒元雄先生から聞かされていた。そこで「原作そのまま」に作曲する条件で木下順二さんに申し出、原作を殆ど改変しないことを約束して諒承を得たのだった。日本最初のオペラ作曲だから作曲はずいぶん難航した。
その理由は、オペラは音楽劇ではない、の点であった。既に僕は劇音楽の作曲には馴れていた。然し、劇音楽の方法論ではなく、音楽作品としてのオペラを書くためには、寧ろその馴れを追放せねばならなかった。劇音楽ならば、その場の音楽が効果を持てばよい。しかし、音楽作品であるオペラは、たとえ演技を払拭して音だけ鳴らしても、その1時間なり2時間が「音楽」として感動を呼ぶだけの質と密度を持たなければならないのである。その密度を作り上げ、質を創造することがその当時の僕には至難のトライアルだった。
しかし、昭和27年(1952)1月30日の夜、オペラ「夕鶴」は藤原歌劇団により初演を迎えることができた。
團 伊玖磨 | |
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『夕鶴』作曲の頃の團伊玖磨(1952年) | |
基本情報 | |
生誕 | 1924年4月7日 日本 東京府東京市四谷区 (現:東京都新宿区) |
死没 | 2001年5月17日(77歳没) 中国 江蘇省蘇州市 |
学歴 | 東京音楽学校 |
ジャンル | クラシック音楽 童謡 映画音楽 放送音楽 |
職業 | 作曲家 エッセイスト |
團 伊玖磨(だん いくま、1924年〈大正13年〉4月7日[1][2][3] - 2001年〈平成13年〉5月17日[2])は、日本の作曲家、エッセイスト[4]。作曲家としてはオペラ、交響曲、歌曲などのいわゆるクラシック音楽のほか、童謡、映画音楽、放送音楽と幅広いジャンルの作曲を手がけた。「團伊玖摩」などは誤表記。東京出身[1]。
主要な音楽作品については「團伊玖磨の楽曲一覧」を参照。