掲載時肩書 | 元阪神タイガース監督 |
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掲載期間 | 2008/06/01〜2008/06/30 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1933/07/26 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 立命館大学 |
学歴その他 | 山城高 |
入社 | 阪神球団 |
配偶者 | 校長娘 |
主な仕事 | 牛若丸、甲東園、禅寺、引退大リーグ 視察、阪神監督、3連続ホーマー,仏国監督、 |
恩師・恩人 | 松木謙治郎、盛永宗興老師 |
人脈 | 広岡達朗、同期(小山正明、三宅秀史、大崎三男)、理論家(山内一弘、中西太)、今里純、掛布雅之、江夏豊、バース |
備考 | 1球団3度監督 |
1933年7月26日 – )は京都府生まれ。元プロ野球選手(内野手、右投右打)・コーチ・監督、野球解説者、野球評論家、タレントである。現役時代は「牛若丸」と称され、華麗かつ堅実な守備で知られた守備の達人であった。阪神を日本一に導き、そして阪神の監督を3度経験した唯一の人物である。現役時代の背番号「23」は吉田の引退後につけた選手は一人もなく、1987年に阪神の永久欠番となった。なお、1965年に記録したシーズン12打点は、2リーグ制以降で規定打席に到達した選手では最少記録となっている。
1.藤村富美男監督の排斥事件
あの騒動は一体何だったのだろうかと、今もって思う。阪神入りして4年目、1956年のシーズンオフだった。主力選手による「藤村監督排斥事件」が起こり、私たち若手も、いや応なしに騒ぎに巻き込まれた。藤村さんは東の川上哲治、西の藤村と言われたスーパースター。1936年のチーム結成と同時に入団し、戦前戦後を通じ阪神一筋に投手、内野手で活躍した。「物干し竿」と呼ばれた長尺バットを振るった勝負強い打撃、見せる野球に徹したショーマンとして人気があった。
その藤村さんが56年に選手権監督になってから、チームの空気が何となく怪しくなった。そして、オフの11月に事件が表面化した。表向きは、スター意識の抜けきらない独善的な監督に、主力選手が反発したというものだった。金田正泰、田宮謙次郎がリーダー格で真田重蔵、白坂長栄らのベテランから、私や小山正明、大崎三男らの若手まで、多くて十数人だった。若手は黙って聞き入っていた。
後で聞いたが、この騒動には阪神電鉄本社と球団フロントとの抗争が、深くかかわっていたとのことだった。監督をめぐる人事抗争に選手が利用されたのではないかと思う。
2.現役引退の裏面
1969年の私は入団17年目で初めて100試合出場できず、打率も初めて2割を切った。36歳という年齢的衰えもあったが、コーチ兼任は職務を忠実に遂行しようと思っていた。高知の秋キャンプで戸沢一隆代表から村山投手兼任監督の就任を告げられ、コーチとして協力するように求められた。阪神本社と球団フロントが、村山監督起用に向かっているのは、肌で感じていた。この年、南海が野村克也兼任監督、西鉄が稲尾和久監督の就任を決めた。阪神もこの青年監督ブームに、乗り遅れまいとしたのではなかったか。
秋のキャンプから帰阪して球団から呼び出しがあった。てっきりコーチ契約の話かと思ったら、戸沢代表は「身を引け」と告げた。長老コーチならともかく、年長者が下にいたら監督もやりづらいと判断したらしい。村山と私が対立していたような報道に、過剰反応したフシもあった。いずれ帰ってこいとは言われなかったが、400万円が支給された。慰労金でも退職金でもなかったが、ありがたく受け取った。
3.天国と地獄
2度目の監督の3年間で「天国と地獄」を体験した。85年はバース、掛布、岡田の3連発トリオなどの活躍でリーグ優勝、日本一だったが、86年は勝率5割で3位。87年は白星がポツンと混じる黒星地獄だった。
この87年は開幕前から、いろいろとケチが付いた。掛布とバースが相次いで乗用車で違反事故を起こし、新聞ネタになった。久万俊二郎オーナーが掛布を痛烈に批判し、掛布が落ち込んだ。外国選手は来日が遅れ、契約のずさんさと管理体制の甘さを散々叩かれた。チーム混乱の極め付きは、竹之内雅史コーチの職場放棄だった。夏場過ぎから、球団は私に退陣を迫る動きを見せた。マスコミも同調して「六甲おろし」ならぬ「監督おろし」の論調だった。最終的に岡崎義人球団社長は「キミの名誉のために辞任ということにしよう」と解任を通告した。球団の意向で辞めるのだから「解任で結構です」と私はその申し出を断った。
辞めた後、人生の師である竜安寺大珠院の盛永宗興老師が、嵐山で私とコーチ陣の慰労会を開いてくださった。短い間に天国と地獄を味わった仲間に、「天地会」という名をいただいた。
氏は2025年2月3日に91歳で亡くなった。「私の履歴書」登場は2008年6月の76歳のときでした。プロ野球からの「私の履歴書」登場は、川上哲治、鶴岡一人、別所毅彦、西本幸雄、杉下茂野村克也、長嶋茂雄に次いで、8番目だった。その後、広岡達朗、稲尾和久、王貞治、江夏豊の順で合計12人。再読して興味深い箇所を抽出、要約しました。
1.同一球団で3度の監督
阪神の選手で17年間プレーし、引退後は監督を3度にわたって通算8年務めた。藤本定義、三原修、西本幸雄のように3球団以上で指揮を執った人物は何人もいる。だが、同一球団で3度も監督をしたのは、日本球界では中日の天知俊一監督と私だけらしいと最近になって知った。名誉だと考えるべきか、老舗球団の入り組んだ内部事情による巡り合わせと受けとめるべきか。現役引退後は野球評論家をするのと並行して、頻繁に渡米して米大リーグを見学した。
2.江夏放出の裏話
1974年暮れに阪神監督に就任する時、球団から「江夏をトレードに出す。そのつもりで」といわれた。奔放に振舞って協調性を欠く、体調管理を怠り、安定性を欠くなどが、主な理由だった。私は待ったをかけた。確かに終盤の息切れが目立った。今もシーズン最多記録として残る401三振を奪った68年当時のすごみはなくなったが、トレーニングさえ積めば、再生できると確信していた。
75年の中日球場での開幕戦で、江夏は中日に完投勝ちした。9回、井上弘昭に2ランを浴びて5-4と追い上げられたが、素知らぬ顔で救援を送らなかった。投げ切った江夏は、宿舎「御園旅館」の私の部屋に来て涙を流した。私もほろりとした。
だが、江夏の息切れは解消しなかった。忘れもしない、7月26日の川崎球場での大洋戦。5回裏で8-0とリードしたところで、長田睦夫球団社長が「良かったね。誕生日を白星で飾れて」と声を掛けてくれた。終わるまで分からないと戒めているが、江夏が投げてこのスコア。それが逆転された。
蒸し返された江夏トレードに、同意せざるを得ない。球団は「監督は知らないことにしておけ」と言ったが、実際は南海・野村克也監督と細部を詰めることを任された。それが外に漏れ、江夏は「トレードを進めながら、知らぬとは」と不信感を募らせた。マスコミは監督―選手の対立構図を作り、人気選手の肩を持った。私はムキになり反論するが散々たたかれた。
3.フランスで野球指導
1987年暮れ、京都で日立フランス社長の浦田良一さんと会食した時、「フランスへ野球を観に来ないか」と誘われた。野球心が刺激された。89年から7年間、クラブチームと仏ナショナルチームを指導した。バンセーヌの森にから体育専門学校の球場があり、バルセロナ、アトランタ五輪に向けて野球を強化していた。新山彰忠、三宅秀史、山内一弘の諸氏と、大産大の学生、PL学園のOBらが入れ替わりに手伝ってくれた。
フランス人気質に最初は戸惑った。思考も行動も自己中心だった。「全員まとまった練習をやるのは難しい」と浦田さんに注意されていた。フランスで野球はマイナー競技なので、見て学ぶ機会がない。連係プレーやバントの意味を、最初から説明しなければならなかった。私はノックバットでコミュニケーションをとることにした。ノックで選手と「会話」をしたのだ。ゴロ一つで2アウトを取る併殺も興味を示した。国際試合をするうちに、強い国のチームプレーに学ぶことが多くなった。
いろいろな国へ遠征したが、ロンドンでは思いがけない体験をした。ピカデリーのオープンカフェで、日本人青年男女のグループから声を掛けられた。外務省の海外研修生で、野球の話で盛り上がった。写真を撮り、住所を交換して別れた。後日、達筆の手紙と写真が届いた。書名は小和田雅子さん。グループの幹事役をされていたようだが、控えめな方だった。(写真掲載、6月28日付)
*2025年2月5日日本経済新聞の「評伝」吉田義男氏では、詳しく書かれています。
プロ野球阪神の名遊撃手として活躍した吉田義男さん(1958年2月)。現役時代はセ・リーグのベストナインに9回選ばれるなど名遊撃手として活躍した。ヒラリ、ヒラリと舞うような動きは、ニックネームの〝牛若丸〟さながら。並はずれて素早い送球は、捕るより早く投げると絶賛された。その特技のため、手を添えるのが早過ぎて「よく右手を突き指した」と笑った。
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基本情報 | |
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国籍 | ![]() |
出身地 | 京都府京都市中京区 |
生年月日 | 1933年7月26日 |
没年月日 | 2025年2月3日(91歳没) |
身長 体重 | 167 cm 56 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 遊撃手、二塁手 |
プロ入り | 1953年 |
初出場 | 1953年3月28日 |
最終出場 | 1969年10月16日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
野球殿堂(日本) | |
選出年 | 1992年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について |
吉田 義男(よしだ よしお、1933年7月26日 - 2025年2月3日)は、京都府京都市中京区出身のプロ野球選手(内野手、右投右打)・コーチ・監督、野球解説者、野球評論家、タレント、甲子園歴史館の運営会議顧問[1]であった。
現役時代は「今牛若丸」[2]と称され、華麗かつ堅実な守備で知られた守備の達人であった。引退後は3度にわたって阪神タイガースの監督を務めた。阪神を初めて日本一に導き、また阪神の監督を3度経験した唯一の人物である。
ニックネームは「よっさん」[3]。1989年から1996年まで野球フランス代表監督を務め、「ムッシュ」とも呼ばれる[3]。甥の谷真一も近鉄バファローズの元プロ野球選手[3]。
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