掲載時肩書 | 作曲家 |
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掲載期間 | 1985/07/03〜1985/07/31 |
出身地 | 茨城県 |
生年月日 | 1921/01/20 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 65 歳 |
最終学歴 | 専門学校 |
学歴その他 | 日立工 業専修 |
入社 | ボイラー・暖房会社 |
配偶者 | 引越し先娘 |
主な仕事 | 入隊、作曲・歌唱、「異国の丘」、抑留3年、ビクター、「有楽町」歌、吉田学校、 |
恩師・恩人 | 佐伯孝夫19歳上 |
人脈 | 米山正夫、服部正、フランク、小畑実、宮川哲夫、マヒナスターズ、松尾和子、鶴田浩二、三浦洸一、吉永小百合、橋幸夫 |
備考 | ビクター犬 190匹 |
1921年1月20日 – 1998年6月10日)は茨城県生まれ。国民歌謡作曲家。生涯作曲数は2400曲を超える。都会的で哀愁漂うメロディーは都会調歌謡と称され、ムード歌謡から青春歌謡、リズム歌謡まで幅広く手掛けた。また、鶴田浩二、三浦洸一、フランク永井、松尾和子、橋幸夫、和田弘とマヒナスターズなど多くの歌手を育て上げた、第二次世界大戦後の日本歌謡史を代表する作曲家の一人である。
1.我が家には犬が190匹以上
我が家は家内と家内の母親のほかに、190匹以上の犬たちに囲まれて暮らしている。びっくりするだろうが、この犬は生きている本物ではない。ビクターのマスコットとして知られている例の犬をかたどったトロフィーの小さな犬たちなのである。ビクターでは毎年、その年にヒットしたレコードを社内表彰するとき、記念品として、そのレコードの作詞家、作曲家、歌手たちに対して、この犬のトロフィーを出してきた。
この小さな犬は、首をかしげて主人の声を聞き入るあの格好で、木製の台座の上にチョコンと鎮座している。それが全部で190匹以上も、我が家の居間と書斎の棚のほか、ピアノの上にも整列しているのである。
2.「異国の丘」の原曲「昨日も今日も」
昭和18年(1943)の7月から8月にかけてだったか、それとも、もう朝晩は寒くて凍傷にかかる者も出始めていたから、8月から9月にかけてだったかも知れない。関東軍の2か月大演習が行われたのだ。その最中、激しい腹痛に見舞われ、軍医に見てもらうと間違いなく盲腸炎だった。泥だらけのまま直ちに手術台に乗せられ、軍服をメスで切り裂かれて手術が始まった。患部からウミが飛び散るのを見ていたがひどい腹膜炎を併発していた。ようやく命拾いをして、そのまま1か月ほど病院にいた後、原隊に復帰した。この病院のベッドに寝ている間に、一つのメロディが頭に浮かんできた。それに合わせながら、自分なりの歌詞を付けたのが「昨日も今日も」である。
今日も越え行く山また山を 黒馬(あお)よ辛かろ切なかろ
がまんだ待ってろあの峰越えりゃ 甘い清水を汲んでやる
この後、部隊を転進したが、上等兵になって教育係を担当するようになり、私が初年兵によく歌わせた。
昭和23年(1948)8月1日は日曜だった。この日の昼過ぎNHKの「のど自慢」で、中村耕造というシベリアからの復員者が合格の鐘を鳴らした。「異国の丘」が、初めてラジオの電波に乗って全国に流れたのである。ビクターの専属スタッフの一人だった作詞家の佐伯孝夫氏は、「あの歌はいける。レコードにすれば、きっと売れる」と力説し、レコード化にこぎつけた。佐伯氏が歌詞を補筆し、清水保雄氏の編曲で、一番の歌詞を専属歌手の竹山逸郎に、二番を「のど自慢」の中村耕造君と男性コーラスに、そして三番は二人とコーラスに歌わせた。
しかし、8月初旬に帰国したばかりの私は、「のど自慢」のことも、ビクターのレコード化の動きも、全く知るはずがなかった。8月の半ばごろから東京へ出て、以前の勤め先のあった京橋の槇町に通うようになった。毎日逗子駅から満員電車に揺られて東京に通ううち、「異国の丘」が「のど自慢」にたびたび登場していたので、さすがの私も、それが自分のメロディであるのに気付いた。しかし、NHKが作者探しをしていると姉に教えられても、それがどういう意味を持つのか、すぐにはピンと来なかった。
そのうち、私は旧知の米山正夫氏がコロンビアの作曲家として活躍されているのを知り、ある日、米山さんを訪ねた。米山さんは「異国の丘」の話になった時、「うん、そうか。あれはいかにも吉田君らしいメロディだ」と大きくうなずいた。そして「音楽著作権の問題もあるので、すぐにNHKに名乗って出なくてはいけない。僕が一緒に行ってあげよう」と言ってくれた。NHKも作者探しに全国から多くの投書があり、その中に作詞者を増田幸治、作曲者を吉田正とするものが、かなりあったので信頼してくれた。
3.恩人・佐伯孝夫先生
19歳も年上だった佐伯先生は、私をもう一回り小さくしたような体つきで、薄くなりかけた髪の毛をなびかせて、ひょうひょう素振りは「寒山拾得」の絵を思い出させた。私の作ったヒット曲には、佐伯先生とのコンビによるものが多い。
三浦洸一の「東京の人」、山田真二の「哀愁の街に霧が降る」、フランク永井の「東京午前三時」「西銀座駅前」、橋幸夫の「潮来笠」、橋・吉永小百合の「いつでも夢を」、松尾和子・和田弘とマヒナスターズの「グッド・ナイト」、フランク・松尾の「東京ナイト・クラブ」など、いずれも佐伯先生の詩によって曲想を誘い出された作品である。私を作曲家として大きく飛躍させてくださった恩人であるが、既に鬼籍に入られた。これといった恩返しもできずに終わってしまったのが残念で仕方がない。
𠮷田 正 | |
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基本情報 | |
生誕 | 1921年1月20日 |
出身地 | 日本・茨城県日立市 |
死没 | 1998年6月10日(77歳没) |
学歴 | 日立工業専修学校卒業 |
ジャンル | 歌謡曲 |
職業 | 作曲家 |
活動期間 | 1948年 - 1998年 |
公式サイト | http://www.yoshidatadashiongakukinenkan.org/ |
𠮷田正(よしだ ただし、1921年(大正10年)1月20日[1] - 1998年(平成10年)6月10日[1])は、日本の国民歌謡作曲家。死後の1998年7月に国民栄誉賞受賞。位階は従四位。茨城県日立市出身。
生涯作曲数は2400曲を超える。都会的で哀愁漂うメロディーは都会調歌謡と称され、ムード歌謡から青春歌謡、リズム歌謡まで幅広く手掛けた。吉田が描いた曲風は吉田メロディー(吉メロ)と称される。また、鶴田浩二、三浦洸一、フランク永井、松尾和子、橋幸夫、和田弘とマヒナスターズなど多くの歌手を育て上げた、第二次世界大戦後の日本歌謡史を代表する作曲家の一人である。