掲載時肩書 | 歌人 |
---|---|
掲載期間 | 1957/04/10〜1957/04/23 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1886/10/08 |
掲載回数 | 14 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 早大予 |
入社 | |
配偶者 | 国松孝子 |
主な仕事 | 「新詩社」「スバル」戯曲「パンの木」「人間」四国・九州・中国・瀬戸内遍歴、歌集、随筆集 |
恩師・恩人 | 与謝野寛 、森鴎外 |
人脈 | 新詩社(啄木、高村光太郎、白秋、木下杢太郎)人間(久米、里見弴) |
備考 |
1886年(明治19年)10月8日 – 1960年(昭和35年)11月19日)は東京生まれ。大正期・昭和期の著作家、歌人、脚本家である。華族(伯爵)でもあった。大学を中退した1908年の年末、耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋、木下杢太郎、石井柏亭らと結成した。1909年1月、森鷗外を中心とする『スバル』創刊となり、石川啄木、平野万里の3人で交替に編集に当たる。啄木とは同学年だったこともあり、特に親しかった。3月に戯曲『午後三時』を『スバル』に発表。坪内逍遥に認められ、続々と戯曲を発表して脚本家としても名をあげる。1910年、第一歌集『酒ほがひ』を刊行。翌年には戯曲集『午後三時』を刊行し、耽美派の歌人・劇作家としての地位を築いた。
1.新詩社の人たち
明治38年(1905)、当時詩歌雑誌として目覚ましい発展の「明星」の歌風に心酔した結果、その主宰者である与謝野寛先生の結社「新詩社」に入れていただいた。この新詩社では毎月1回例会が催されていたが、それにはほとんど欠かさずに出席して、そのころ砕雨と号していた高村光太郎はじめ、まだ本名の太田正雄を名乗っていた木下杢太郎、柳河から上京したばかりの北原白秋、平野万里、茅野粛々などという人たちとも相知るようになった。この例会には森鴎外先生も陸軍省の帰りに、軍医総監の軍服のまま出席されることもあったし、上田敏、馬場孤蝶、戸川秋骨、生田長江等も来て、欧米文学の名作や最近の消息などを聞かせてくれた。はじめて石川啄木に会ったのも、やっぱり新詩社の例会で、第一詩集「あこがれ」が出たころだった。
2.自由劇場・第一回公演「イプセン」
明治42年(1909)11月、小山内薫氏が市川左団次君と提携して自由劇場を興し、第一回公演を行ったのは、有楽座においてであったが、この時に上演したのはイプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルグマン」で、これを観た時の感激は、50年後の今日でも、いまだに胸の鼓動を覚えるくらいである。開幕に先立って、緞帳の前に出て来て一場の挨拶を述べた小山内氏の颯爽とした姿は、いまだに私の眼底にある。
終演後、有楽座に続いていた食堂で、柳田国男、中沢臨川、島崎藤村らイプセン会の人たちに、谷崎潤一郎、後藤末雄、木村荘八ら「新思潮」の連中も加わって、自由劇場のために乾杯をした後、小山内、左団次の二人を擁して銀座に押し出し、さらにまたその時分たった一軒しかなかった台湾喫茶店というカフェで気勢を上げてから、まだ自動車のなかった時分なので、尾張町の停車場から電車に乗る二人に向かって万歳を唱えたのだが、こんなことも昨日のように思われてくる。
3.都踊りの作詞
私が京都の油小路に住んでいたのは、昭和26年(1951)8月までの3年間で、ここにきて主な仕事は都踊や東踊の歌詞を作ることだった。なにしろ私は、23,24歳時分から京都に遊びに来ているので、都踊りというものはこれまで幾たびも見てるし、「にぎやかに都踊の幕下りしのちの寂しさ誰にかたらむ」などという、歌も幾首か作っているのだが、自分でその歌詞を作ることになろうなどとは、思いもかけなかったことなので、最初これを引き受けた時は、どういう風に書いたらよいか、かなり困った。
それでこれまでの歌詞や構成を繰り返して検討してみた結果、はじめの置歌から、総踊、中挿み、それから最後の散らし、台拍子といったようにこれまでの形式を、やっと頭に入れることができた。何しろ振付が舞といって踊と言わない井上流のことであるから、なるべく伝統の型を崩さないように作詞をしたのだけれども、毎年作っているうちには、何か新しいものを加えたいといったような心持にならないでもなかった。しかし、いろいろ考えているうちに、結局都踊だけは、一つの古典舞踊として、今までの型通り大事に保存して置いてもよいのではなかろうか、ということに落ち着いてしまった。
吉井 勇 | |
---|---|
1955年 | |
誕生 | 吉井 勇(よしい いさみ[1]) 1886年10月8日 東京芝区高輪 |
死没 | 1960年11月19日(74歳没) 京都市 |
墓地 | 青山霊園 |
言語 | 日本 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 攻玉社卒業 早稲田大学専門部政治経済科中退 |
活動期間 | 1908年 - 1960年 |
ジャンル | 短歌、戯曲、小説、戯曲 |
文学活動 | 耽美派 |
代表作 | 『ゴンドラの唄』 |
主な受賞歴 | 日本芸術院会員(1948年) |
デビュー作 | 『午後三時』(1903年) |
親族 | 吉井友実(祖父) 吉井幸蔵(父) |
ウィキポータル 文学 |
吉井 勇(よしい いさむ、1886年(明治19年)10月8日 - 1960年(昭和35年)11月19日)は、大正期・昭和期の日本の歌人、劇作家、小説家である[2]。華族(伯爵)でもあった。本名の読み仮名は「よしい いさみ」[1]。
北原白秋らと「パンの会」を結成。石川啄木らとは雑誌「スバル」を発行して耽美派の拠点とした。人生享楽の世界を歌った『酒ほがひ』(1910年)で注目された。ほかに『祇園歌集』(1915年)など。