掲載時肩書 | 作曲家 |
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掲載期間 | 1972/12/06〜1972/12/31 |
出身地 | 福岡県 |
生年月日 | 1904/11/18 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 明治大学 |
学歴その他 | |
入社 | コロンビア |
配偶者 | スター 歌手 |
主な仕事 | マンドリン部、自殺未遂、テイチク、代々木自宅事件、音楽親善大使、NBCで放送、ブラジル、日本作曲家協会(レコード大賞) |
恩師・恩人 | 佐藤千夜子 |
人脈 | 藤山一郎、中山晋平、山本丈晴(養子) 、山本富士子、萩原朔太郎、佐藤惣之助、西条八十、平岡養一、 |
備考 | 媒酌:山田耕筰 |
1904年11月18日 – 1978年7月25日)は福岡県生まれ。昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。
少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。その後は、プレクトラム音楽家の「古賀正男」から流行歌王「古賀政男」になり、昭和期を代表する国民的作曲家としての地位を確立し、数多くの流行歌をヒットさせた。その生涯で制作した楽曲は5000曲ともいわれ、「古賀メロディー」として親しまれている。養子の丈晴氏と山本富士子さんとの結婚話は記述なし。
1.私と楽器、音楽に対する考え方
私は子供のころ聞いた門付けの月琴に始まり、大正琴、琵琶、琴、三味線、マンドリン、ギターという具合に、楽器の中でも特に弦楽器にいつも心を惹かれてきた。弦楽器は、タッチの仕方一つで微妙な表情が表現できる楽器である。弦楽器こそ、自分の心の揺れや感情の起伏を託すのに最もふさわしいものだと直感的に感じ取っていたのだろう。
四兄からプレゼントされたマンドリンに学生時代夢中になった。この楽器だけは、何としてもすっかり自分の手の中に入れて自在に弾きこなせるようになりたいと、そう考えていた。それに伴って音楽全般に対する研究の意欲もわいてきた。音楽関係の書物もいろいろ調べて、音楽概論、楽典、作曲法など次から次へと首を突っ込んでいった。西洋の先人たちの残した名曲の楽譜を検討して、作曲技法上の問題についても自分なりにいろいろ研究してみた。
私は音楽家になるのに、正規の音楽学校は出なかった。だから言うわけではないが、音楽とか芸というものは、必ずしも師匠につかなくてはいけないものではないと思う。これまでの生涯のうち、私は師匠というほどの師匠には一度もつかなかった。何もかも、いわば我流で覚えてきた。しかし、自分にその気があったから、耳に聞こえる音、目に触れるもの、それが私の師匠になった。世の中が私の先生だった。
2.作曲とは
作曲というのは、歌詞を形の上だけで受け取ってしまえば簡単だ。しかし日本の詩歌には、言葉の裏に、またその行間に、いろいろな意味や響きがある。それをとらえて曲を付けるのでなければ、私は本当の作曲とは言えないと思う。私はいつでも、そういう気持ちで曲を書いて来た。
「酒は涙か」は、発売されると、100万枚を超える大ヒットとなった。暗い歌だったが、あのころは、世の中がどん底であった。暗い社会に生きる人たちの胸に、あの歌は突き刺さっていったのだろう。藤山一郎君の歌唱もピッタリしたムードを出していた。
「酒は」に次いで「丘を越えて」(島田芳文作詞)を書いたが、これも何十万枚という売れ方を示した。前曲からわずか半年後、世相は依然暗いのに、一転して軽快な曲がヒットしたのだから不思議である。歯切れのいい藤山君の歌い方で、すっきりした曲に仕上がった。
3.レコードと映画の提携
昭和10年(1935)に入ると、映画会社の日活と「映画は日活、レコードはテイチク」というキャッチフレーズで提携を結んだ。レコードで発売する歌を、映画の中に取り入れてもらう条件で、映画音楽は一切専務の私が担当し、作曲は勿論、その宣伝や新人歌手の要請まで手広く手掛けた。
文字通りの八面六臂の活躍の中から、「二人は若い」「緑の地平線」「東京ラプソディ」「男の純情」「ああそれなのに」「人生の並木道」「青い背広で」といった曲が次々と生まれ、相次いでヒットした。当時、私の作品を歌ってくれたのは楠木繁夫、ディック・ミネ、藤山一郎、美ち奴といった人たちである。
古賀 政男 | |
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1950年(昭和25年) | |
基本情報 | |
出生名 | 古賀 正夫 |
生誕 | 1904年11月18日 |
出身地 | 日本福岡県三潴郡田口村(現・大川市) |
死没 | 1978年7月25日(73歳没) |
学歴 | 明治大学商学部卒業 |
ジャンル | 歌謡曲(流行歌)・演歌 |
職業 | 作曲家 |
活動期間 | 1931年 - 1978年 |
レーベル | |
著名使用楽器 | |
ギター マンドリン |
古賀 政男(こが まさお、1904年(明治37年)11月18日 - 1978年(昭和53年)7月25日)は、昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位、勲三等瑞宝章、紫綬褒章。明治大学商学部(旧制)卒業。本名は古賀正夫(読み同じ)。
少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。その後は、プレクトラム音楽家の「古賀正男」から流行歌王の「古賀政男」になり、昭和期を代表する国民的作曲家としての地位を確立し、数多くの流行歌をヒットさせた。生涯で制作した楽曲は5,000曲ともいわれ、「古賀メロディー」として親しまれている。