掲載時肩書 | 裏千家家元 |
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掲載期間 | 1986/11/02〜1986/12/02 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1923/04/19 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 63 歳 |
最終学歴 | 同志社大学 |
学歴その他 | ハワイ大学 |
入社 | 府立2高女講師 |
配偶者 | 聡明、清楚・登三子 |
主な仕事 | 6歳稽古始め、千家(表・裏・武者小路)、大徳寺修行、米国茶道行脚、各国大学講座、青年会議所、茶道研修所、僧籍、ハワイ大学講座 |
恩師・恩人 | 瑞厳老大師、 吉川英治(仲人も) |
人脈 | 西村晃、内海倫(主計長)、盛永宗興、大谷光紹、松下幸之助、湯川秀樹夫妻、鈴木大拙、塚本幸一、小谷隆一、稲盛和夫、立石孝雄、マンスフィールド |
備考 | 中興の祖(玄 々斎:裏11代)、 |
1923年(大正12年)4月19日 – )は京都府生まれ。茶道裏千家前家元15代汎叟宗室。若宗匠時代は宗興。現在は大宗匠・千玄室と称する。「玄室」の名は、千家4代目の仙叟宗室が宗室襲名前に玄室と名乗っており、これに因んで12代直叟宗室が隠居した際に玄室を名乗ったことに由来する。妻は登三子(1930-1999)。長男は現家元16代玄黙宗室。父は14代碩叟宗室(通称・淡々斎宗室として知られる)。姉は茶道家・冠婚葬祭評論家の塩月弥栄子。次弟は納屋嘉治・淡交社社長(1925-2004)。
1.3千家の理由
千家のお茶に表、裏、武者小路の3つがあることは知られているが、いつごろ、どうして3千家に分かれたのかを、簡単に紹介させていただきたい。天正19年(1591)2月28日、秀吉からの切腹の命を従容として受け入れ、利休居士は70歳の生を終えた。利休居士の死後、千家は閉門を命ぜられたが、徳川家康、前田利家らの尽力で間もなく再興を許される。二男少庵は新たに京都御所北西の小川の辺に土地を賜り、不審庵を建てたが、すぐに隠居し、三世宗旦に後を引き継いだ。
宗旦には諸大名から仕官の誘いがあったが、祖父の非業の最期を知っているだけに、全ての申し出を断り、代わって三男宗三を紀州徳川家に、四男宗室を加賀前田家に、相次いで茶道奉行として仕えさせた。その後、宗旦は不審庵を宗三に譲り、隣に今日庵を建てて宗室と共に移り住んだ。また二男宗守は高松藩の仕官を辞し、小川の下流、武者小路に官休庵を建てて一家を構えた。
時代が下がって元禄のころから、不審庵を表千家と呼ぶのに対して、今日庵は母屋に続く家という意味合いから、裏千家と京の人たちが呼び習わしたようだ。
2.茶人は武士、茶の普及へ
大名家の茶道奉行と言えば、柳生家が武芸をもって仕えたように、お茶の指南はもとより、茶道具その他一切のことを取り扱う、いわば文芸担当官である。よくオポチュニスト、日和見主義者のことを「茶坊主」と軽蔑し、お茶人に対して「たかが茶坊主が」といった言い方をするが、これは全くの間違いであり、侮辱である。千家はれっきとした武門であることを申し添えたい。
3千家の当主は代々、適格な長男が継ぐのが原則で、やむを得ぬ場合は他の千家から養子をもらうことになっている。だが、十世に男子がなく、しかも他の千家にも適当な男子がいなかったため、異例ながら、かねて昵懇の三河奥殿・大名家から、来てもらったのが救世主となる玄々斎である。
この人は武人であり、学者でもあり、この人によって3千家は明治維新の混乱期を乗り越えられたと言ってよい。茶道を遊芸と見る時の政府に対し、「茶道の源意」を提出して、道としての茶道を認めさせたのである。また、初めて女性にも茶道を開放した。江戸時代までの茶道は、武芸と同時に武士や関係者が見つけるたしなみであり、社交の場であり、女性は正式の茶室に入ることは許されなかったのである。
3.特攻隊と西村晃
徳島海軍航空隊に第一次特攻隊の出撃命令が出たのは、昭和20年4月2日だった。出撃メンバーの中に「死なばもろとも」と言った西村晃は入っていたが、私の名はなかった。当時、既に妻子持ちだった西村は「俺は嫌だ。お前はうそつきや」と言い出した。「何がうそつきや」と聞くと、「一緒に死のうと言ったやないか。俺だけ死ぬのは不公平や。お前はうまいこと外されたんやないか」「そんなことないよ」「それなら、お前も志願しろ。一人で死ぬのは絶対嫌だ」と言い張る。
「よし」と、私は分隊長の田中大尉に、第一次特攻隊に加えてもらうように頼みに行った。五黄のいのししの私は、こうと思ったら猪突猛進である。3度、4度と頼み込んだが、大尉は「どうしてお前は、そんなに死に急ぐのか。別命あるまで待て」と相手にしてくれない。
西村を気遣いながら悶々として過ごすうちに、10日ほどすると、突然私に松山航空隊への転属命令が出た。「やられたな」と思ったが、一人松山に赴くしかなかった。
4.米国に茶道行脚
一盌(わん)のお茶をもって、アメリカの人たちに日本の心を知ってもらおう。そう決意して単身渡米したのは、昭和26年(1951)1月10日だった。当時、占領統治のGHQの許可を取り、ハワイ在住二世の松尾さんと貿易商の藤川さんと一緒に、ハワイ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトル、シカゴ、ボストンなど歩き回った。ニューヨークを訪れた時には、母との関係もあり湯川秀樹博士夫妻が温かく迎えてくれた。コロンビア大学で茶道のデモンストレーションをした際には、湯川夫人をお客にして私がお点前を披露し、博士が説明役という、誠に贅沢な趣向で米国人を喜ばせることができた。この直後にサンフランシスコ講和条約が結ばれ、その記念行事の一環として茶道のデモンストレーションを行ったが、鈴木大拙先生が私のために「茶禅の心」と題して、利休居士の話を交えながら茶道の精神について講演してくださった。
5.茶道の国際化
マンスフィールド駐日アメリカ大使は、どこで会っても私のことを「クラスメート」と紹介してくださる。初めて聞く人は怪訝な顔をなさるが、米ニュージャージー州シートンホール大学とハワイ大学で、共に名誉学位人文博士号をいただいた仲なのである。
ハワイ大学は私の第二の母校であり、1955年9月には、私が歴史学部の教授(永久職)に任命された。しかも日本の大学で茶道を正科単位に取り入れているのが数えるくらいであるのに、ハワイ大学はいち早く単位学科として「ウェイ・オブ・ティー」の講座を開設しており、カリフォルニア大バークレー校やロサンゼルス校、ワシントン大学、シートンホール大学など他の多くの大学でも同様タイトルの講座で学生が熱心に学んでいる。