掲載時肩書 | 出光興産社長 |
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掲載期間 | 1956/07/19〜1956/07/28 |
出身地 | 福岡県宗像 |
生年月日 | 1885/08/22 |
掲載回数 | 10 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 神戸大学 |
学歴その他 | 神戸高商 |
入社 | 酒井商会丁稚奉公 |
配偶者 | |
主な仕事 | 出光興産、石油カルテルに抗す、イランから単独石油輸入 |
恩師・恩人 | 水島鉄也(神戸高商校長) |
人脈 | 日田重太郎(8000円無償供与され独立)、内池廉吉(進路助言) |
備考 | 読書嫌い自力思考 |
1885年8月22日 – 1981年3月7日)は福岡県生まれ。明治から戦後にかけての日本の実業家・石油エンジニア・海事実業家。石油元売会社出光興産の創業者。貴族院多額納税者議員。
1.「士魂商才」を学ぶ
神戸高等商業学校(現・神戸大学)で水島銕也校長に師事し「士魂商才」の理念に感化を受ける。内池廉吉教授の「商業概論」の講義で受けた「商売は金儲けではない」との教えから、1940年に出光興産創業後、大地域小売業を展開した独自発想の人物である。
2「モノをよく考える」習慣
氏は「私の履歴書」の冒頭、「小学校に行くころから体が弱くなり、本を読む力がなかった。子供のくせに不眠症や神経衰弱になってしまったのである。読みたいという欲は十分あるのだが読めない。そこで読書をのけて私には一つの習慣がついた。それはモノをよく考えるということである。何かやるにしても考えて考えて考え抜く。それが私の一生である」とある。
3.闘病生活からの悟り
だから、身体が弱いし神経衰弱であるから仕事を怠ける。仕事もうまくいかないから短気になるの繰り返しだった。それを何とか克服しようと原因である病と闘ってきた。これが氏の一生を貫く原動力となった。この闘病生活のときに悟ったのが、身を犠牲にする克己の精神が信念となり、会社の経営も利益本位でなく、商売本位、事業本位という経営哲学になったという。
4.経営哲学の実践
この信念が第二次世界大戦の終了の時に生かされる。中国、朝鮮、満州、台湾などから出光社員が1000人ほど帰国してきた。そのとき出光の外地の財産は無一文になり、内地には250~260万円の借金が残っていた。重役会の決議では「一応全員やめさせ、必要な人数だけとろう」との案がでた。それを氏は「社員のクビを切らない主義だから、こういう時こそ実行しなければならない」と反対。そして一人もクビを切らなかった。それを可能にするため、社員に電気の修繕、海軍の使っていたタンクのドロ油の汲み出し仕事などできるもの何でもやり、みんなが苦労して石油の配給できるように頑張った」と書いている。出光の家族主義は徹底したものでした。
いでみつ さぞう 出光 佐三 | |
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財界研究社『財界』第14巻第4号(1965)より | |
生誕 | 1885年8月22日 福岡県宗像郡赤間村 (現・宗像市赤間) |
死没 | 1981年3月7日(95歳没) |
国籍 | 日本 |
別名 | 海賊 |
出身校 | 神戸高等商業学校 (現・神戸大学経営学部) |
職業 | 実業家 |
活動期間 | 1909年 - 1981年 |
影響を受けたもの | 水島銕也、内池廉吉 |
肩書き | 出光興産創業者 |
子供 | 長男:出光昭介(出光興産第5代社長) 三女:別所純子 四女:出光真子 |
親戚 | 弟:出光計助(出光興産第2代社長) 甥:大和勝(出光興産第4代社長) 甥:出光裕治(出光興産第6代社長) 甥:出光昭(出光興産第7代社長) 甥:出光豊 甥:出光芳秀 |
出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年〈明治18年〉8月22日 - 1981年〈昭和56年〉3月7日)は、明治から戦後にかけての日本の実業家・石油エンジニア・海事実業家。石油元売会社出光興産の創業者。貴族院多額納税者議員。