円地文子 えんち ふみこ

文芸

掲載時肩書作家
掲載期間1983/05/22〜1983/06/21
出身地東京都
生年月日1905/10/02
掲載回数31 回
執筆時年齢78 歳
最終学歴
日本女子大学
学歴その他
入社
配偶者新聞記者
主な仕事戯曲21歳、小説家、野間文芸賞、「源氏 物語」絵画、旅行
恩師・恩人小山内薫、正宗白鳥
人脈平林たい子、神近市子、谷崎潤一郎、朝永振一郎、小林秀雄、今日出海
備考父:東大教授
論評

1905年(明治38年)10月2日 – 1986年(昭和61年) 東京、浅草生まれ。小説家。
戯曲から小説に転じ、『ひもじい月日』で登場。江戸末期の頽廃的な耽美文芸の影響を受け、抑圧された女の業や執念を描いて古典的妖艶美に到達。戦後の女流文壇の第一人者として高く評価された。『源氏物語』の翻訳でも知られる。
東京大学国語学教授上田萬年の次女。夫は『東京日日新聞』の記者だった円地与四松。当時世間的には与四松のほうが有名だった。父などから個人教授を受け、戯曲及び古典日本文学に深い関心を持つようになった。はじめ劇作家として小山内薫の薫陶を受けた。
日本の古典文学については、平安朝から近世まで詳しく、女を描いた小説と『源氏物語』など古典の造詣により評価された。『源氏物語』現代語完訳は、与謝野晶子、谷崎潤一郎に続くもので、新潮文庫に入り広く読まれた。谷崎にはかわいがられ、1965年(昭和40年)に創設された谷崎潤一郎賞で第一回から選考委員を務めた。

1. 小山内薫先生(初めて恋愛感情を抱く)
小山内先生は四谷の南寺町に住んでいられた。私は存外図々しい性質なのでそこへも自分一人で出かけて行った。しかし、いつも他出していられてお会いすることはできなかった。先生は昭和3年(1928)の12月に亡くなられたので、その頃はもう40を過ぎていられたろう。私はお会いする前に2,3年来、人知れず慕っていた。17,18の頃、三越で文芸講演会のようなものがあって、その時の講師が小山内先生だった。その時初めて先生を見て、こんなきれいな人があるものだろうかと感心した。私とは20以上も歳の違う小山内先生に魅かれたのである。
 ある日、講義が終わった後で、初めて廊下で先生と立ち話をした。何を言ったか覚えていないけれど、「ともかく戯曲ができたら見せてください、読んであげます」と言われたのを覚えている。天にも昇るような気持ちで家に帰った。胸の中に小鳥が羽ばたいているようで、その時は意識しなかったが、あれが恋愛感というものの始めだった。

2.平林たい子との付き合い:
同年齢(1905生まれ)だったが、昭和8年ごろ会った時、平林は新人というより既に中堅作家として認められていた。親しくなりモーパッサンやスタンダールなど翻訳文学の紹介や志賀直哉文学を教えてもらい、「白樺派」を知った。しかし、彼女は左翼文学で検挙され、留置場にいれられた。そこで円地は神近市子と共に救援活動を行う。そして、救出後も一時期援助は続けたので、平林との友情関係は続くことになったとある。

3.「源氏物語」の思い出
昭和47年の9月から「源氏物語」の第1巻が刊行された。その後十か月にわたって出し続けて次の年の5月に「夢の浮橋」の終わりの部分を仕上げた。祝福されるべき脱稿のときが思いの外あわれであった。というのはそれまで片目同然で仕事をしてきたその左目が、また前と同じ網膜剥離に犯されてしまったのである。原稿はもう殆どでき上がりかけていて、最後の部分を加藤さんが病室に来て読み返してくださった。その時は眼底出血もあったので、私は殆ど盲目に近い状態であった。それでも、もう少し、もう少しと思ってしまいまでいったのである。終わった時には見えない目から涙があふれた。加藤さんも泣いておられたようである。6年近い歳月をかけた労作が完成したのだから、普通なら二人で乾杯でもすべきなのだがそれどころではなく誠に思いの深さは一方ではなかった。なんともみじめな状態であった。物を書くものにとって、眼を失うことは一番つらいことである。

美女と才女
円地文子
円地 文子
(えんち ふみこ)
1929年の円地文子
誕生 1905年10月2日
日本の旗 日本東京府東京市浅草区向柳原(現・東京都台東区浅草橋
死没 (1986-11-14) 1986年11月14日(81歳没)
日本の旗 日本・東京都台東区池之端
墓地 日本の旗 日本谷中霊園(東京都台東区)
職業 小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 日本女子大学付属高等女学校中退
ジャンル 小説
代表作 『ひもじい月日』(1954年)
『朱を奪うもの』(1956年)
『女坂』(1957年)
『女面』(1960年)
『なまみこ物語』(1965年)
源氏物語』(1972年 - 1973年,現代語訳)
食卓のない家』(1979年)
主な受賞歴 女流文学者賞(1953年)
野間文芸賞(1957年)
女流文学賞(1966年)
谷崎潤一郎賞(1969年)
日本芸術院会員(1970年)
日本文学大賞(1972年)
文化功労者(1979年)
文化勲章(1985年)
デビュー作 『惜春』(1935年)
配偶者 円地与四松(1930年 - 1972年、死別)
子供 長女
親族 上田萬年(父親)
冨家和雄(娘婿)
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円地 文子(えんち ふみこ、1905年明治38年)10月2日 - 1986年昭和61年)11月14日)は、日本小説家。本名:圓地 富美(えんち ふみ)。上田万年二女。戯曲から小説に転じ、『ひもじい月日』で文壇に地位を確立[1]。江戸末期の頽廃的な耽美文芸の影響を受け、抑圧された女の業や執念を描いて古典的妖艶美に到達。戦後の女流文壇の第一人者として高く評価された。『源氏物語』の現代語訳でも知られる[2]日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。

  1. ^ 『円地文学における戯曲から小説への転換』.
  2. ^ 「文化勲章、女流作家の第一人者 円地文子さん死去」読売新聞1986年11月14日夕刊16頁、「女の業、妖美の文学 円地文子さん 執念の口述筆記 源氏口語訳に学者の血」同15頁、新潮社「円地文子」2021年3月1日アクセス。
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